Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目の前の椅子とゆるみ

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今、目の前に椅子があります。

この椅子を、椅子として観なくても良い。
そんな許しを自分に与えてあげたとき、

この椅子は椅子ではなくなります。

そして、それを椅子にしていたのは、どこかから強制されていたわけではなく、
たんに自分でそうしていただけだということも知るんです。

そのときまさに、目の前のあらゆる境界線が溶け去っていきます。
溶けて広がる目の前の世界は、
延々と広がり続け、少し不安を感じるような感覚さえも覚えますが、
かまわずに拡がるままにさせておくとき、

その広がりとともに、自身も溶け去っていくんです。

同時にありとあらゆる問題も一緒に洗い流されていきます。
ですが、ワタシはずっとここに在ったんです。

ワタシの中で、自身と問題が溶け去り、
ありとあらゆる掴み取りも溶け去るとき、
深刻さに対する恐怖も溶け去ります。
恐怖と安心が一つに溶け合っていきます。

そして、
目の前に広がるいつもと同じ風景に、自由と命が吹き込まれていきます。

同時に、強烈なゆるみが押し寄せてきます。

そのゆるみに完全に身を任せたとき。

本来のあり方は、これで良かったんじゃんと知るんです。

ま、正確にいうと、知るもくそもなく、
緩みの中の沈黙しかないわけですけどね。

その沈黙が、どんどんと深く理解に落ちていきます。

沈黙とは、静かでも喧騒でもなく、どちらでもあるということだったんです。

 

ふいぃー。

はい。
おはようございます。
タクさんです。

言葉にできない「それ」について、主観目線で書いてみました。

にしても、椅子を椅子として観ないだけで、
どうして、こうも強烈なゆるみが押し寄せるんだろう??
なんて思ったりもしたんですが、

僕らはどうも、目の前のストーリーを構築するのに、
思ってるよりもかなり膨大なエネルギーを使っているっぽいんですよね。

そりゃー、年取って、エネルギーが減ってきたら、
そらボケるわ。
っていうくらいにねー。

目の前の世界は常に構築されています。
つまり、常に新しい世界観を僕らは構築し続けているんですよねー。
休みなく。

ただ、
逆にいうと、それほどの執念を持って、目の前の世界を作り続けるほど、
愛しているとも言えるのかもしれませんね。

そしてその愛は、目の前の世界が消えたとしても残ります。

なぜなら、その愛は観ているものに属するからです。

そして在るのは、どんな執着をしていようが、疲れてようが、苦しんでようが、
それらに一切影響を受けていない観るものだけなんです。

フォーカスをちょっと緩められるだけで、驚くべきゆるみが押し寄せるんですよねー。

それは、安心感やリラックスがかなたからやってきたというよりは、
ここで、今、チカラが抜かれただけなんだとも言えるかもしれません。

 

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