叶えたい希望。
欲しいもの。
そして、在りたい状態。
さらには、
在りたくない状態や、
叶えたくないこと。
欲しくないもの。
みなさんにもそういうのが、色々とあるもんだと思います。
欲しいものにフォーカスしすぎると、
いつしか、持っていない自分が足りない存在のように思えたり、
来て欲しくない、在りたくない状態を恐れるあまり、
身動きが取れなくなったりもして、
色々と困っちゃったりもしちゃったりしてねー。
だったら、もうどんなことが起こっても困らないようになれないものか?
何が起こっても大丈夫な人になれないものだろうか?
ってねぇ。
願っちゃいますよね。
だからこそ、
もう全ては大丈夫なんです!なんて言葉にも惹かれると思うんですよ。
いや、実際に大丈夫なんですけどね。大丈夫である必要すらないっていうか。。。
ま、でも、こういった話を聞いているときは、なんとなく大丈夫な気になったりしても、
また時間が経つと、日常の雑踏にまみれて、
「あれ?全然大丈夫じゃない!」
という思いに戻ったりしちゃってね。
こりゃいかん!ということで、
本を引っ張り出してきて、また読んでみたり、
話を聞きにいってみたりして、
またそのときは大丈夫な気になってホッとして。。。
とねぇ。
そんなことを繰り返すうちに、ワシは何をしてるんだろう???
と今度は自己嫌悪に陥ったりしちゃったりねー。
そんな感じの方もいらっしゃるかもしれません。
まあこれねー、
どういう思考が起こっても、大丈夫な人になるってことじゃないんですよね。
「えー、それじゃあ、思ってたのんとちがうぅー!」
とか言われちゃいそうですけど、
ここにちょっとしたパラドックスがあるといいますかねぇ。
もうね。
「ああ、もう思いっきり悲しみ悩んでやろうじゃないか!」
と受けて立ってやるといいんです。
もちろん、それはとてつもなく恐ろしく感じるかもしれません。
であれば、チビチビとちょっとずつでも良いんですけどね。
僕らは、足の立つ浅いプールの中で溺れているようなもなんです。
必死でバタついて、身体が沈むのを防がないと溺れてしまう!
と感じているんですが、落ち着いてみると立てるんです。
この立てるというのは、どういうことかというと、
その恐れはイメージの中にしかない。
ということを知るということなんです。
なので、まずは確かめてみるんです。
これはすぐに確かめられると思います。
どう考えてもイメージの中にしかありませんもんねぇ。
ですがまだ、イメージは現実感として残っていると思うんですよね。
次は、ちょっと落ち着いて、このイメージとはどういうものなのか?
というのを確かめてみるんです。
イメージを見ている間は、それが怖いのは当たり前です。
それはね。
青い空を見ると、青い空が見えるのとおんなじことなんですよね。
そして、怖いから観ないようにしてたわけですが、観ないようにすることで、実はずっとチラ見をしていたんです。
ただしイメージによって作り出される世界観は、僕らは常に一個しか観れないんですよね。
他のことを考えているときは、その世界観はほったらかしにされているんです。
僕らはイメージを手放そうとしていたり、抑えつけようとしていたり、変えようとしている間、そのイメージをじっと見ていて、他のことをしているときや何もしていないときはほったらかしにしていたんです。
ですが、放ったらかしにしようとしちゃうと、これまた注目しちゃうという巧妙さもあったりするわけですが、ほっておいても良いものなんだと知ることは収穫です。
どうやら僕らは、イメージに重要感を感じている間は強くフォーカスし、その世界観を色濃く体験しているようなんですよねー。
ですが、あらゆる思考はほっておいてもよいし、結構、ほっておかれている。
そして、あらゆる思考がほっておかれているときに残るのは、完全な未知なんです。
この未知に在っても良いんだと自身が許されるとき、
大丈夫になる必要もなかったことを知るんですよねん。