Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無防備さに身をまかせる

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ほい。
おはようございます。
ラーメン大好きタクさんです。

ひやー。
しかしまあ、なんですなぁ〜。

ぼくら、何かに取り組んでる間は良いんですけど、
それが終わった途端、こんどはこの先のことについてあれこれと悩み出したりするもんですよねー。

いま、問題があれば、それに取り組み、
それがおわったら、今度は先のことを心配するなんてねぇ。

結局なにをしても心配することしかないんかい!
って話ですもんねぇ。

死の床につくときまでも死んだ後のことを心配してたりしてねぇ。

そんなん、願い下げですよねぇ。

 

ま、
これは、なんていうか、防衛本能として出てくる思考に私を同化させてるからには、
心配のタネは尽きないようにできているわけなんですけどね。

ですが、別にわざわざ防衛本能に私を同化させる必要はありません。

だって、例えばね。
体の免疫機能は、常に体を守ろうと、体内の異物を見つけては退治をする。
なんてことを繰り返してますが、わざわざ、それに私を同化させてませんもんねぇ?
それはもう、免疫さんにお任せしてるでしょ??

だったら、思考の防衛本能もお任せしておけば良いんですよね。
そうじゃないと、いつまでも心配が尽きないことになっちゃいます。

では、

お任せをためには、どうすればいいの?って話なんですが、

それは、
どこかのタイミングで、無防備に身を任せてみなきゃならないんですよね。

これ、ちょっと怖く感じるかもしれません。
いやいや、、、無防備になるなんて絶対にアカンやんっ!

って心の声も聞こえてくると思います。

でもねー。
無防備さに身を任せてみると面白いことが明らかになるんですよねー。

それはね。
今までも全くの無防備だったことに気づくんです。

つまり、僕らはわからないことに対して心配をしていたわけですが、
心配したところで、特に何の役にも立ったことがないどころか、
逆に防衛機能の邪魔さえしていたんですよね。

切り傷は、心配しようがほうっておこうが、勝手にかさぶたになります。
ですが、あまりに心配しすぎると、傷の治りは遅くなったりするんですよね。

心配にエネルギーを使うことによって、必要なところにエネルギーが行き渡らなくなってるんです。

それならなおさらのこと、
不必要かつ、自身を不自由にもする心配に気を使わなくてもいいんジャーンてことなんです。

わからんことは、わからん。
できることがあるなら、できることがある。
やりたくなけりゃスルー。
やってみたくなればやれば良い。

もうこれで良いんですよね。

後は勝手に、わからんことを探して持ってきてくれるかもしれませんし、持ってきてくれないかもしれません。
やりたくならない自分を責めるのもお門違いだし、それでもやってしまうならそれでも良いし、ほーんと、どっちでも良いんですよねー。

アイデアやヒラメキは探して見つかるものでもなく、
自分で起こすものでもなく、
勝手に湧いてくるものですからね。

心配したところで湧いてくれるようになるということはないんです。 

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