はーい。
おはようございます。
タクさんです。
みなさん、楽しく一喜一憂されてますでしょうか?
喜びはいうまでもなく、憂いもまたオツなもんです。
この二つはセットで僕らの世界に彩りを与えてくれているわけですからねー。
すばらしい書は、筆で書かれた墨色だけでできているわけじゃなく、
ちゃんと、墨色を浮き立たせる白い紙があってこそです。
この白のスペースが、墨にリズムを与えてくれているわけですからね。
鮮やかな赤も、赤じゃない色があるからこそ、赤が鮮やかさを表現できるというわけですからねん。
ま、そういうわけで、
僕らは、何かを捉えるには、輪郭やコントラストが必要になるわけです。
なので、何かを捉えようとする前に、どこかで架空の輪郭を引かなきゃならないわけなんですよね。
白と黒を分けて整理した上で、黒を認識したり、白を認識したりするわけです。
黒板に書かれた白い文字を認識する時は白を認識し、
紙に書かれた黒い文字を認識する時は、黒を認識するというわけですねー。
よく聞かれる話のひとつとしてね。
「非二元はわかった感じになるんですが、またどうしても考えや思考を掴んじゃうんです。」
とか、
「あの時はとってもスッキリしたんですが、やっぱりまだまだ思考が湧いてきます。」
なんてことをよく聞かれるわけですが、
これって、
「思考を掴んじゃだめ!」
という思いや、
「思考が湧いちゃダメ!」
っていう思いをねー、どっかで掴んでるのかもしれないなー。なんて思うわけです。
べつにね。
思考が湧くなら、それで良いですし、掴んじゃうならそれで良いわけです。
ま、実際に掴んでるわけじゃないんですけどね。思考はモノじゃありませんので。
空(くう)といったような、ある種の状態を保つ。
ということじゃありませんのでね。
思考が湧いてるなら、湧いてるで、もうそれが「それ」なんです。
そして、何かしらの思考を掴んでいると感じている時、
どこかに、「これはダメだ!」が隠れています。
これがねー。別にダメじゃなくて、それでよしなんです。
空(くう)と色(しき)。
これは言葉上、分けて書かれていますが、同じものを表現しています。
僕らが何も掴まずに、ただ在るとき、それは空ですが、何かを掴んだ時に色になるんです。
僕らは透明のものをみることはできませんから、透明なものに色付けをしてから
見るわけなんですねー。
それが色(しき)だというわけなんです。
色は便宜上、色付けされるものです。
なんでもないものは、なんでもないものとして在るわけですが、
便宜上、分離をして名前をつけて何かを観ているだけなんですよねー。
それが思考の働きなんです。
思考の働きは、どこまでいっても、便宜上のものでしかありませんので、
その中に真実はありません。
便宜上というのは、仮にそういうことにしておく。ということですのでね。
だから、便宜上の働きが起きていようと、それを気にする必要はないんです。
便宜上のものに真実性を帯させるから、混乱しちゃってたんですよねん♪