Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自己否定は百害あって一利なしでございます。

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

まーなんでしょう。
アホで良いんですよー。
カシコにならなくて良いんですよー。
とかね。

自分を許してあげましょうねー。

とかいうことをよくここで書いてるわけなんですが、
そもそも、僕らが苦しむ原因の大きな一つというのが、
自己否定にあるんですよねー。

そもそもね。
この自己否定、低い自己評価。
これ自体が錯覚なんです。

この錯覚に陥ってると、
勝手に問題を量産し続けちゃうというわけなんです。

この自己評価があまりにも低いと、なんていうか、
本来の自分を抑え込み、まったく違う人格を作り上げちゃったりして、
本来の自分に取って代わる。
みたいなねー。

そんなややこしいことさえもやっちゃうわけです。

違う人格を迎え入れることによって、最初は評価の低い自己が
覆い隠されるので、なにか楽になったような気がしたりもするんですけどね。
そのうち、自分らしくないその人格とのギャップにこれまた苦しんだりもしちゃうわけです。
するとまた、別の人格が作り上げられて、、、。となんだか余計にこじらせちゃって、わけがわからんことになったりもするんですよね。

それもまた、自己に対する評価の錯覚によって引き起こされたりするわけです。

 

低い自己評価の錯覚から目覚めるためには、癒しが必要になるわけですが、この癒しとなるのが、自己への許しとなるわけです。

そもそも、自己に対する評価が低いということは、何かしらの評価軸がどこかにあるということになります。
つまり、何かしらの評価の物差しがあるわけですけどね。

この評価の物差し自体が、全くもってデタラメなんですよね。
キリンとゾウが、尻尾の長さを競うようなものなんです。

そのデタラメな物差しを本物だと信じていること自体が、
錯覚なんですよねー。

さて、ではその錯覚から目覚めるためには、
自分がどんな評価の物差しを採用しているのか?
それをまずは知らなきゃいけませんよね。

その物差しを呼び出す際に必要なのが、
自己への許しとなるわけです。

「まあ、いいかぁー」
って許してあげますとね。
「良いわけないやろー!!!」
って言ってくる思いが出てくると思うんですよね。

そこで、
「おまわりさん、こいつです」
って、その思いを突き出してやれば良いんです。

まあ、実際におまわりさんに、こいつですって、
自分の首根っこを自分でひっつかんで持っていっても、
変な奴扱いされちゃいますので、どうすれば良いかと言いますと、

「良いわけないやろー!」っていう思いはね。
何をしているのかと言いますと、
いろんな観念を駆使して、

「わし、重要やでっ!」

っていう演出をしているわけです。

この重要さを真に受けるから、
まんまと錯覚に陥るわけなんですよね。

だから、
思いっきり、「知らんがな!自惚れるな!」
ってね。
言ってやるんです。

そんなもん、重要でもなんでもないんです。

そうやってスルーしてやる。
それが難しければ、今だけ、置いておいてやるんです。

すると、その物差しは機能しなくなるわけですが、
機能しなくてもなーんの問題もないということをねー、
実感として知っていくと、すこしずつ錯覚から目覚めていくわけなんです。

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