Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私が何かをコントロールしたことがないから、しなくていいんです。

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思考ちゃんは何かを掴み取るという働きです。

そして、掴み取るというのはどういうことかというと、
なんでもないものに、何かしらの判断、解釈を加えるということです。

それで思考ちゃんはその解釈によって、何かを掴み取ったことにしてるんですよね。
しかし、この解釈が成り立たなくなると、思考ちゃんは途端に不安になります。
あれ、この解釈、もしかして間違ってた??
みたいにね。
そして、より信憑性が高いと思われる解釈を求めるわけです。

ただ、解釈はどう頑張っても解釈の域を出ません。
解釈とは、そういうことにしておくということでしかありませんからねー。

 

解釈というのは、どういう仕組みになっているのか?というと、
それは、原因と結果という仕組みによって成り立っています。
結果に対する原因や理由によって解釈が成り立っているんです。

なので、こういう理由によってこうなっている。
ということをつかむことによって、思考は何かをつかんだ気になるというわけですねー。

そして、掴めたら、よしわかった!と安心するわけです。

思考は、解釈によって理由づけをすることによって働きが収まりますが、
その理由づけが見つからない場合は、働き続けます。

思考は、その思考自身が収まるのを目指して働いているんです。

ただ、思考がつかんだものというのは、実体のあるモノではありません。
なので、何かをつかんでる状態というのは、そのことを考えている間。
つまりは思考が働いている間しか持続しないんですよね。

ここにちょっとした矛盾があるんです。
思考は、働きが収まるのを目指して働くわけですが、
思考が収まると、つかんだものを手放してしまうんです。

手放されるとまた掴もうと働くというわけなんですよね。

この思考の働きの中に、僕らの人生という観念があり、
ありとあらゆる出来事があり、

そして、「私」という観念もあるわけです。

普段僕らは、解釈に解釈を重ねて複雑化させることで、わかった気になっているわけですが、
実は、思考の中心点にある「私」の正体すら知らないということに気づいちゃった時、「真の私への探求」という探求ステージが始まるんです。

思考が何かを掴み取る時は、私という主体者が必要になるわけですが、
この主体者がどこを探してもいないんですよねー。

でもね。
「私」というものがいなくても、ちゃんと通常通り働いてるのか!
ということを知った時、
なーんだ。私がコントロールしなくても大丈夫だったのかー!
ということを知るんです。

そして、うまくコントロールしなければならないという呪縛から、
解放されるというわけなんです。

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