Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真我のありか

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真我っていうのは、言葉の通り、真の私
つまりは、本来の自分ということになりますよねぇ。

その本来の私がね。
自分から離れることなんてありえないと思いません??
だって、本来なんですから。

もしそれが自分からどこか離れてるんだとしたら、
もう本来じゃないですもんねぇ。

つまり、本来の私っていうものは探すまでもないものであるはずなんですよねー。

なので、どこかにそれを探すのだとしたら、
それは見当違いのところを探しているということになります。

頭に引っ掛けたメガネを
「メガネメガネー」って、探し求めてる。
みたいなことになっちゃうわけですねー。

 

じゃあなぜ、真我が見逃されてるのよ!
って話なんですが、
なんていうか、自身って掴み取るものじゃないですよねぇ?

自分は自分をつかみとれるはずがありません。

それは、自分の目をじかで見れないのと同じですね。

なので、つかみとれるモノでもなけりゃ探してみつけるモノでもないっていうことです。

ですが、僕らが何かを掴み取る時、
掴み取る!という行為をなりたたせるため、
掴む者である主体、そして、掴まれる客体という観念が必要となります。
そして、この主体者は行為者でもあります。

そして、思考というのは、
あらゆるものを掴み取ろうとする働きなんですよね。

つまりこの思考が起こる時は、
主体と客体。
そして行為者という観念が必要になってくるんです。

そして、この行為者こそが私である。
ということにしているんです。

そうしないと、思考が始まらないですからねー。

ですが、この私というものは存在しませんので、
何が私なのか?がわからずにいるんです。

私は、私が何者なのかわかっていない!
ということを知ると、
思考は大騒ぎを始めます。

私が私を知らないなんて大変なことやないかっ!
ということになりますからねー。

ですが、どこを探しても私はいないんです。

名前の中にも、
肩書きの中にも、
そして、体の機能の中にも、
思考の働きの中にも、
私は見つかりません。

ただ、この心の世界を成り立たせている、私という存在感は
どこかに感じられているんです。
私がいるから、私は思考の世界を展開できているはずですからねー。

この思考と心の世界の始まりの源泉。
ここに立ち戻ることで、私は、私に立ち戻ります。

ですが、そこに立ち止まった時、ここでは思考は働いていないんです。
思考が働く以前の源泉ですからねー。

この「源泉の私」を思考の中の世界に連れて行くことはできないんです。

またこの「私」という意味もまた、「私以外」がないと成り立たないものですので、
私に立ち戻った時、そこには、「私と私以外」という観念も無くなるんです。

すると、「源泉の私」からは「私」は抜け落ち、源泉だけが残る。
この源泉が、分離のない「在る」なんです。

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