おはようございます。
タクさんです。
女性のスラリと細く伸びた足を褒める言葉として、
「カモシカのような足」
という表現がありますよね。
昔のダウンタウンのデビュー当時の漫才で、
カモシカのような足っておかしいやろっ!
カモシカの足のような足ならわかるけど
といったようなくだりがありました。
いかにもまっちゃんらしいネタですが、
ま、この辺の表現の仕方のツッコミは、
面白いねー。で良いんですが、
僕らも結構、自分のことを錯覚してたりするんじゃないかなぁ。
なんて思います。
たとえば、
私は悲しい。
私は不安だ。
という思いですね。
これって、実は錯覚で、
この辺も、もっと厳密に見てみると良いのかもしれませんね。
私は悲しい。
私は不安だ。
というのは、厳密には違うはずです。
だって、
私と悲しみ。
そして、
私と不安は、別のものですもんねぇ。
私=(イコール)悲しみや不安。
ではないですもんね。
「私は不安です。」
これ、もしね、
「不安」という言葉を知らない人が聞くと、
あー、不安という名前の方なのですね。
って思いますもん。
自己紹介ですか?
って感じです。
そうじゃないですもんね。
なので、もう少し厳密にいうと、
私は悲しみを感じている。
わたしは不安を感じている。
こっちの方がより正確です。
でも、まだ厳密には正しくありません。
何故なら不安や悲しみって、
なぜ感じているのか?というと、
それを観ているからですもんね。
この観るというのは、目で見るだけじゃなく、
体や感情や感覚で体感として観るという感じです。
これを観てはじめて、僕らは悲しみや不安を感じられるわけです。
となると、正確にいうと、
悲しみや不安を感じている。
というのではなく、
私は悲しみを観ている。
私は不安を観ている。
ということになります。
これ、
まさに映画を観ている。
とか、
夢を観ている。
というのと一緒なんですよね。
ただ、体感のリアリティーや臨場感は
違いますが、
私は、観ているんです。
これがありのままの真実だということになります。
私は悲しみそのものではなく、不安そのものでもない。
私は、観る者なんですよね。
このありのままの姿をありのままに知る時、
私と何かの同一化が溶けていきます。
実際に同一化していたわけではなく、その錯覚が見破られるんです。
私が悲しみ自体ではなく、私が不安なのでもないという真実は、
僕らに安心感を与えてくれます。
不安や悲しみ自体が消えるわけではないんですけどねー。
僕らは、私と何かの一体化による錯覚から、私から不安や悲しみを取り除こうとしちゃうんです。
でも、なかなか消えてくれないから、苦を感じてたりしてたんですねー。
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