Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

わしが育てた!を主張する「私」

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はい。
おはようございます。

目上のおじさんなんかと、ご飯を食べに行ったときなんかに、
「うまいっすねー。」
っていったところ、ドヤ顔をしながら、
「だろぅー!」
っていってくるおじさんに、ちょっと釈然としない気持ちを持っている
タクさんです。

みなさんいかがお過ごしでしょうか?

いやだって、このご飯がうまいのは、あんたの手柄じゃないやん!
ってねぇ。
ちょっと思ったりするわけです。

 

ま、それはいいとして、
もしね。
一緒に出かけた人にね。

「うーん。今日は雨が降りそうだねぇ。」
なんて言ったところ、

「いやーゴメンなー。晴れさせようと思ってたんだけどうまくいかなくてー」
とかね。
言われたら、
「???」
ってなりますよねぇ。

はたまた、もし晴れてたりなんかして、
「いやーいい天気ですねー!」
って言うと、
「だろぅー!」
ってドヤ顔された日にゃ、

あんたが何をしたって言うんじゃい!
って突っ込みたくなりますもんねぇ。

「いやぁー。
夏が暑くて、冬は寒い思いさせてー
いやーワシも春ばっかりにしてあげたいんやけど
ホンマゴメンなー」

とかね。
言われても、あんた関係ないがな!
って言いたくなりますし、

「どう??今日の小春日和??気に入ってくれてる??」
とかドヤ顔されても、
イラっときます。

天気に対して勝手に責任感じたり、
わしが育てた!みたいな顔をして見たところで、
それは、もう滑稽ですし、それよりも、
そんな錯覚をしてる本人が疲れちゃいますもんねぇ。

ま、
これと同じようなことを自我ちゃんはやってると言うわけです。

心の気分が雨模様であっても、快晴であっても、
この天気に責任を持つ必要はありません。

悩みや葛藤が起きていたとしても、
それに対処できるようなことは、ほっておいたら対処法の思考も湧き上がってきてくれますし、
湧き上がらんなら、ジタバタしたところで湧き上がりません。

あ!っとヒラメクような面白そうなヒラメキも、
誰かがせっせと作ってるわけではありません。
コントロールするものはいませんし、僕らはそれをただ、映画のように観ているんです。

観照者の意識に落ち着こうっ!って頑張る以前にすでにそうなんですよね。

この観てるものというのが、奥の方にある「私」です。
でもこの私も単なる観念ですので、単に観てるんだーという気づきの後、
その私は落ちていきます。

それは、観照する誰かもいないという気づきであるとともに、
観るものと観られるものは一緒だという見抜きなんです。

あとは、今まで通り、「私」だとしていた思考もちゃんと起こってくれるわけです。
その見抜きと一緒にね。

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