Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

いま、ここで緩んでみる。

f:id:takuteto:20190311210340j:plain

いやー。
しかしまぁ、なんですなー。
僕らは、ホントいつでも緩んで良いんですよねー。

ファーって緩んでると、
あれこれといった思考も働きません。

目の前の風景は映画のように、起こっては消えていきます。

この起こってることに、良いも悪いもないっていうことがねー。
なんていうか、自我ちゃんにしたら退屈極まりないように聞こえるかもしれませんが、

ホント、そのダイレクトさに身を任せていると、
イノチの躍動をそのままに感じきれます。

退屈どころかもうワクワクです。

これは、喧噪のエネルギーと、完全な静寂さを同時に持っているという感じです。

だからこそ、どんな表現としても見ることができるっていうポテンシャルも持っているわけなので、
僕らはこのキャンパスに、いろんなストーリーを彩ることができるっちゅうわけでもあるんですけどね。

 

ただ、ストーリーが紡がれている間は、やっぱりどこかに力が入っているんですよね。

また、僕らは危機に備える時に自動的に力が入っちゃうわけですが、
その感覚が、いつでも危機感を持っておかなきゃ安心できない。
みたいなね。

いつでも危機に対応できるようにしておこうっ!

みたいな思いが働いちゃったりしてると、
いつまでたっても緩めないわけです。

安心を求めて、安心から遠ざかってるんですよね。

ちゃんと必要な時は体が調節して力を入れてくれるから、
もう今、緩んじゃっても良い!
ってねー。
許可をしてあげちゃうと良いんですよね。

これが、ホントの楽観さなんだと思います。
完璧な楽観さですね。

楽観ってね。
きっと良くなる。という思いを持つということとは、ちょっと違って、

悪くてもええがな!
という自分への許しなんだと思うんですよね。

最悪なら、最悪でええがな!
と、自分をちゃんと許してあげるんです。

そうは思えないっ!つらい!
と思うなら、それでええがな!と、できない自分も許しちゃうんです。

でね。思考のストーリーが紡がれる前の感覚を緩めてあげたら良いんです。

この辺の方法がよくわからない〜。
って方もおられると思います。

ラマナマハリシさんっていうえらい聖者さんはね。
私にあるに戻ってくるんやー!
みたいなね。言い方をされておられます。

戻れないんやったら、私はどこにいるのか?問うてみなさいねー。
って言い方もされてますよね。

これは、簡単にいうと、
「この思いは誰におきてるんだ?」
って聞いてみたら良いってことなんです。

そうすると私だ!ってなりますよね。

すると思考はすっ飛ばして、私という感覚にワープできます。

この私にくっついてる感覚を感じてみるんです。

でね。
そこにある感覚の緊張感を思いっきり緩めてあげるんです。
ファーっってね。

ファーッってのがよくわからんとも言われますが、
緊張感をたんにそのまんま見守ってあげるとね。
多分、徐々に弱まってきます。
しかも、この感覚は思考で思ってたほど、悪いものじゃありません。
だから、抱きしめつつ味わいつつ、観てあげると良いんです。

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!