Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては愛、もう許されとる!

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ほいほい。
おはようございます。
タクさんです。

全ては愛ってな体験。
こういう体験が不意に訪れることがあったりするんですけどね。
これは、何かに到達するとか、
何かが降りてくるとか、
そう言ったアイデアがひらめくとか、、、。

そう言った感じではなく、
僕が感じた感覚では、今まで掴み取っていた、愛ではない感覚。
いわゆる思考に頼った世界観。
これらが、落ちたときに不意に現れたありのままの世界ってかんじなんです。

この世界は外にはなく、全ては内側にあるんですよね。
そして、全てですので、もう内も外もないってことになります。

内側、外側というのは、思考の中にだけある概念だったんです。

そしてその世界を体感した時、
今まで、僕らは、いかにイメージで作られた世界だけをみていたのか。
自分は、何とも分裂されておらず、分離した個人なんて存在し得るわけないじゃないかーってね。
思い知らされるというか。

 

ありとあらゆる命が連綿と一体化されていて、
僕らは目の前の世界を呼吸によって吸い込み、そして吐き出している。
そんな全てとのつながりの中に、一体化されていて、
自分とは、その全てに偏在していたんです。

なのに、皮膚に包まれた範囲の個人の体の範囲と、それ以外の外の世界をわけ、
自分とその他を作っていたわけですが、それがあまりにも無理のある設定だとみせつけられるわけですねー。

すると、今まで持っていた罪悪感。
そして、分離されているという感覚。
持ち込んでいたありとあらゆる思考。

これらが、全てすでに許されていたということを思い知らされるわけです。

この許されていたという感じ。
でもって、全部だという感じ。

これがねー。なんていうか、背負ってきた自分の荷物がなくなることも相まって、

もうねー。感動的なんですよ!

なので、涙と笑いと安堵がとまらなくなっちゃったりするんですよねー。

僕の場合はねぇ。
何度かそういう体験がありましたけど、最初の一番キョーレツなやつは、
朝のビジネスマンがひしめく、カフェベローチェ内で起こりましたからねぇ。

これから仕事やっていうビジネスマンがひしめく忙しい朝の中、
止まらない涙に困ったことを思い出します。

いやいや、ほんまに、みーんな一つなんですよ。
個別で存在しているものなんて何一つないんですよねー。

窓の向こうに見える、工事中の車の、ウインカーの点滅。
それがまさに、イノチそのもの。

そしてそのイノチの息吹は、まさに今、自分の中に感じている息吹と全く同じであり、
その息吹は、宇宙が始まるビックバンと全く同じなんですよね。

まあ、これは、まさに当たり前で、
この体験は特別なものではないんです。
これを特別と捉えちゃうと、これはこれでややこしいことになるわけなんですが、

このことは、まさにオープンになっている当たり前のことでして、
僕らは、この当たり前を無視して、頭の中に駆け巡る心象風景の方だけを注目するクセはまっちゃってたんです。

で、はまっている間だけ、この当たり前のありのままを見逃していたんですよね。

そして、はまっているなら、はまっていてそれで良いんです。
あらゆることが許されていることが見抜かれる時、僕らは何もしなくてもよくて、
そもそも、何もしてなかったことを知るんです。

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