「私はいない」という言葉を聞くとね。
は?この私の感覚自体がないってこと???
でも、私、話したり、頭かいたり、歩いたりしてるんですけどっ!
どういうこと????
でも、大の大人が微笑みながら、マジな顔してゆーてはるし。。。
もしかして、私が知らない何かが隠されているのか???
なんてね。
思ったりするもんですよねー。
「私がおらんのやったら、誰がどの口でそのセリフを喋っとるんや!」
ってね。
というわけで、今日はこの辺についてかいてみたいと思います。
結論から言うと、
みなさんが、今まで、私だとしていた感覚。
これは「私の」感覚ではなく、単なる感覚、
そして、その正体は、気づきの意識です。
別の言い方でいうとなると、在るという意識なんです。
それに「私の」を後付けしているだけなんですよねー。
この「私の」が錯覚の原因となるんです。
例えばね。
指先に痛みを感じた時、「意識」は指先にフォーカスされます。
すると、「私の意識」の「意識」が指先にフォーカスされることによって、
「意識」は指先になりますよねぇ。
そうすると、「私の意識」は「私の指先」に変換されるんですよね。
指先が私ではないのに、錯覚として私の指先という感覚を持ち込んじゃうわけです。
指先の痛みが引き、指が意識されなくなると、指は私ではなくなります。
そしてまた、次に意識されているものに、「私」は乗り移るんです。
これが「私」がいるという錯覚を起こす原因だったりするんですよねーん。
ですが、意識そのもの。この私としていた感覚。
これがないというわけじゃありません。
指にフォーカスできるのも、
思考にフォーカスできるのも、
その「私」としていた感覚。意識。在る。
があるからこそです。
一番身近な感覚がまさに気づきの意識なんですが、
あまりに近すぎて、この感覚は掴むことができません。
そして、僕らは掴めるものの中で一番近いものを「私」としているのと同時に、
この感覚を「私」と混同しているというわけですねん。
この気づきの意識はずっと在るわけですが、これは掴みとれません。
僕らが掴めるのは分離分割されたものだけだからです。
掴むというのは、意識のフォーカスです。
なので、何かに意識がフォーカスされている間だけ、
「私の」が存続します。
そして、「私の」という観念が自然と主張せず、静かーに、何かにひっつくことによって、
感覚として、「私」という行為者がいるような錯覚もまたここで生じるんです。
どういうことかと言いますと、「私の」というからには、わからんけどどこかに、主体がいるんだろうなー。
という感覚がスッと納得させられちゃってるというわけですねー。
ここで、そうか!すべてに気づいている意識!観照者こそが私なんだな!
って思ったりもするわけですが、
この観照者というのも実はいないんですよね。
変な話、何かしらの音が聞こえた時、
起こってるのは、その音が聞こえるという経験だけなんですが、
後付けで、聞いているのは、主体である「私」そして聞こえている音の発生源は、
「私」じゃない何か。
みたいな分離による整理整頓が、単にイメージ内で起こってるだけだということなんです。