Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

覚者の景色

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

僕らがついつい見逃しているもの。
それが、「ありのまま」の世界なんですけどね。

「ありのまま」の世界ってなんやねん??
それがわからんから、探しとるんですけど、、。

って思ったりしちゃいますよねー。

今日は、この「ありのまま」について書いて見たいと思います。

 

「それ」を知ったら、
「悟り」を開いたら、
「目覚め」があったら、、、。

僕らの世界は変わるのだろうか??

ゆうてねー。
憧れちゃったりもするんですが、
じゃあ、覚者っていうものは、どんな景色を見てるんだろう?

覚者が観ているという「ありのまま」の世界とはどんな景色なんだろう?

ってことなんですけどね。

「ありのまま」の世界。
これって、み〜んな、観てるんですよね。

「ありのまま」の世界。
これは、まさに読んで字の通り、
「ありのまま」の世界なんですよね。

つまり、そのまんまの世界だということです。

富士山を見ているとしますよねぇ。

その景色そのもの。
これがありのままです。

そして、もしかしたら、僕らは、
富士山を見ながら、
「あーあれが、日本一高いと言われている富士山かー!」
「富士そばの創業者も、この山に感動して屋号を富士そばとしたらしいよねぇ」
「あ、、、そばのこと考えたら、腹が減って来た!」
「やっぱり、そばといえば、かき揚げ天ぷらそば!やな!もちろん卵入り」
「紅生姜天も美味しいんだよねー。」

みたいなことを考えてるとするじゃないですか。

すると、僕らは富士山を見ながら、その考えの方を見ることによって、
富士山をそば屋のストーリーとして観てたりするわけです。
(ちょっと強引ですが、、、。)

するとね。
今度は、このストーリーによって、感情や体の感覚も変わって来ますよね。

悲しいストーリーが頭の中で展開されれば、胸が締め付けられるような気になりますし、
怒りのストーリーは、腹に重たい感覚を感じるかもしれません。

そうやって、目の前の「ありのまま」を目にしながら、僕らはイメージに意識を向けているわけです。

僕らが人生を説明しようとする時。
僕らは、観えていた「ありのまま」じゃなくて、その時に展開していたストーリーの記憶を呼び起こしますよね?

まあ、ありのままだと、山と呼ばれている景色が広がっていた。以上。
ってことになりますので、ストーリーにならないんですけどねー。

まあ、そう言うわけでね。
起こっては消えていくイメージが、
目の前に見えているありのままを見ているくせに、見逃している。
と言うわけなんです。

じゃあ、なぜ「ありのまま」が至福だと言われているのか?
なんてことも気になっちゃったりしますよねぇ。

これもね。
苦というものは、イメージの中にしかないからなんですよね。
欲求もそうです。

欲しいものが手に入った時、一瞬の安堵が訪れるじゃないですか。
それって、欲求が消えたことによるリラックス感を味わっていたりするんです。

イメージ現実として観ている時。
それって、馬を鹿として観ているのと同じように、
ありのままをありのままとして観てないことになりますよね。

イメージをイメージと気づくこと。
この気づきが「ありのまま」への目覚めなんです。

もちろん、起こっては消えていくイメージは脳が働く限りは起こり続けるんでしょうけど。

イメージのことで、そんな本意気で右往左往する必要あるー?
って気づいてくると、深刻さはそこで薄れてくるんですよね。

深刻さが薄れるとどうなるか?と言うと、作られるイメージも楽観的なイメージに変わっていくんです。

人生とは、イメージの積み重ねですからねー。その辺も副作用として変わってくるかもしれませんが、
どんなイメージであれ、単に起こっては消えていくものだと言うことは、変わらないんですよね。

と言うわけで、一緒に山を見ているのなら、覚者も凡人も同じ山を観ていると言うわけです。
そして、覚者と凡人がいる!と言う思いすらも覚者の中にはありません。
そもそも、覚者なんていないし、全ての人に、この山がすでに観えていることは明白なんで、そこに差なんてないことは明白ですからねー。

そして、山を観ながら、何をイメージしようが、ありのままは変わらずありのままとしてここにあるわけですから、何の問題もないんですよねん。

 

 

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