Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいないんだから、私じゃない。

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心も、体もね。
あなたがコントロールしているのでもなければ、
あなた自身でもありません。

だから、心が悩んでても、身体についての悩みも、
あなたが気に病む必要もないんですよね。

そう聞くと、
「でも悩みや不安が起こってくるんです。」
って思いますよねぇ。

でも、その悩みやその不安もあなたの悩みや不安じゃないんです。

だから、解決してやる必要もないんですよね。

そもそも、何かしらの対処ができることなら、悩みや不安になってません。
対処ができない。つまりわからないから困ってるわけですが、
わからないことはわからないで、いっかー!
って置いておくと、わかったら勝手に対処が起こってきますので、
今の所は、置いておくしかないんですよねー。

まずは、置いておいて、無色透明の今に溶けてみるんです。
十分に溶け込んだなら、

今、ワクワクすること。
ジワーと湧き上がる表現したいこと。
リラックスしたいこと。
こう在りたいと思うこと。

そちらの方に光を当ててあげるんです。

 

ま、変な話ですが、悩みは私じゃないとか言いながら、
実はぜーんぶが私でもあるんです。

僕らって、「私」っていう感覚は否定しようがなく在りますよねぇ?
「私はいない」という言葉はね。
この「私」という感覚の否定ではないんです。

この「私」を思考上の枠に押し込めた時、思考上で私は演出され、
この「私」を身体の枠に押し込めた時、体としての私が演出されるんです。

すると、途端に「私」は枠の中に押し込められて、私と、私以外という感覚ができるわけです。
そして、その私以外というのは、わからない謎のものになってしまうわけです。

同時に、僕らの思考はわからないものは恐怖となりますので、
わかっておこうと予測を立てるんですよね。

思考はそういう働きを持っているんです。
そして、予測が外れた失敗体験は、記憶の中に保存されるというわけです。

そして、予測がつかないことに対しては行動が鈍ってくるわけですが、
どうしても未来はわからないことだらけですので、悩みが尽きなくなるんですよねん。

なので!あまりに思考に取り憑かれると、身動きが出来なくなってきちゃうんです。

ま、これは、思考の機能上仕方のないことでございます。

ただ、わからないものはわからないまま、ほっておいても良い。
取り憑かれる必要もない。
という視点に気づくと、随分と楽になるんです。

そして、取り憑かれさえしなければ、そこに、私を縛る枠はないんです。

思考を置いておくことが出来てくると、私に課せられた枠が緩んでくるんです。

私から枠を取り払うと、私は全体に溶け込んでいきます。
僕らが感じている、自分という感覚。
この本来の姿は、全体性なんです。

枠から私が解き放たれていくと、私が本来の私へと還っていきます。
その時、いかに強固に見えた、身体という枠、思考という枠、心という枠が、
実は空想のハリボテだったことに気づくんです。

「私はいない」という言葉を聞いた時。
今、感じている私という感覚を手放そうとするのではなく、
その感覚を感じたまま、そこにある枠を外してみたらいいんです。

そして、あらゆる枠から解き放たれた時、
更には、私という枠からも解き放った時。
私と呼んでいたそれは、ずっとここにあった気づきの意識であったことに気づけます。

そして、気づきの意識は、目の前で変化を繰り返すイノチの躍動そのものでもあるんです。

思考という枠から解き放たれた時、主体と客体というアイデアも解き放たれます。
すると、見るものと見られるものという分離の味方からも解放されるんです。

面白いことに、ちゃーんと分離して物事を観ることができる能力は残ったまま、解放されるんですよねー。

つまり、今までと一緒とも言えますし、今までもそれで良かったんだという気づきでもあるんです。

それは、言葉にしちゃうとややこしく、言葉にしないでいると、とってもシンプルな真実なんです。

 

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