Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

捉えられないグラデーション

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僕らの目の前の世界は、実際は、白と黒がくっきりと分かれているものではなく、
全てはグラデーションです。
全ての色が表現されているグラデーションなんですよねー。

そして、そのグラデーションが常に変化を繰り返しているんです。

まさにこの変化の衝動こそがイノチです。

ありとあらゆる全てにイノチの衝動は行き渡っていて、
そして、イノチは分離されていません。
全体の共鳴!
これこそがイノチの正体なんですよねー。

 

さて、
僕らは、
グラデーションを捉える機能を持っていません。

赤なら赤!
青なら青!
と捉えることができるんですが、

グラデーションは何色?と言われても、
言えないんです。

それを思考で捉えることができないんです。

では、どうするか?というと、

赤っぽい部分をつまみ上げて、ここからここまでは赤。
青っぽい部分をつまみ上げて、ここからここまでは青。

と表現しているんですよねー。

実際の景色は、海辺から砂原に移り、砂原は平原となり木々が生い茂る林となり、林は森へと移っていく。
こういった景色に、海と砂原の境界線はなく、林と森の境界線も実際のところはありません。

でも僕らはグラデーションを捉えられないので、ココは林で、あっちに森がある。
といった捉え方を、便宜上やってるんですよねー。

そして、この便宜上捉えられた世界観が、いつしか世界そのものだと勘違いしちゃってるわけなんです。

実際のグラデーションが見逃されてるんです。

そして、世界は、思考で変換された世界に閉じ込められちゃうことで、
目の前のあるがままを、変換なしに見ること、味わうことを忘れちゃったんです。

このことを忘れちゃうことで、僕らは思考のストーリーだけが現実なんだと捉えるクセが定着しちゃったんです。

さて、僕らは思考で何かを捉えようとする場合、ストーリー展開をさせないと捉えることはできません。
そして、ストーリーは、何かしらの条件がないと展開できません。
なので、脳内のストーリーで、条件が作り出され、
そして、条件に沿わないものは問題となり、その問題をストーリー上で解決しなきゃならなくなったんです。

つまり、問題に意識がフォーカスされるわけですが、されればされるほどに、
ストーリーにはまり込むことになります。

この癖が定着していくに従って、
僕らは、どんなものでも捉えることができるはずであり、
捉えられなきゃならない。
と思い込んじゃうわけです。

だから、なんでも白か黒か?と判断したがるようになり、
全てに、原因と結果があるはずだと信じるようになるわけです。

これが信じられると、
「どっちでもあって、どっちでもないんだよぉ〜。」
という答えは、受け入れられなくなっちゃうんですよね。

そして、白か黒か?わからないものに関して、恐怖を抱いたりします。

するとますます、どっちが白で、どっちが黒なんだー???
っていう問題に、頭を悩ますわけなんです。

そして、より正確だと思われる判断材料を集めるうちに、
自らが収集した判断材料によって、自由を奪われていくんです。

自由が、どんどんと奪われていくと、
今度はそこに不自由さを感じるんです。

この不自由さが極まった時、人は真理を求めるんだと思います。

「あれ?おかしいやないか!!!」
人生がいつの間にかどんどん不自由になっていっとる!」
「なぜ、こんなに不自由になってしまったんだー???、どこでワシは間違ったんや!」
「どこで、ボタンを掛け違えたんやーーー!」

ゆうてねー。

どこでボタンのかけ違ったのか?というと、捉えたものを信じた時点でかけ違いが始まってたんですよね。

でも、僕らが、この仮の条件で作られた思考の夢から目覚める時
ずっと真理はここにあって、僕らは真理から逃れたことなんてなかったことが明らかになります。

また、考えや判断もまた、この真理の一部であり、逃れようがなかったことだったんだー!
っていうことも知るんですよねー。

そこで、一切のフィルターを通さない「あるがままの世界」と
思考で捉えた世界の両方を、一緒に楽しめるようになってくるんです。

この楽しみ、この全て。
これはまさに表現そのものです。

そしてこの表現とはイノチそのものなんですよねー。

うーん。
Vivaイノチ!です。

もう僕らは、イノチを思う存分楽しんでたんです。

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