Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワタシの定義

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はーい。
おはようございます。

ドラム洗濯機の蓋のパッキンが弱ってきて、
水漏れしてることが最近のもっぱらの悩みのタクさんです。

うーん。修理すべきか。。。
それとも買い換えるべきか。。。
結構高いんだよねー。。。

もう、10年ほど使ってるから寿命なのかなぁ。。。

でも、寿命で買い換えるのって家電メーカーの狙い通りになってるようで、ちょっと悔しいなぁ。

そうそう。
家電メーカーが力を入れてる所って、10年ほど使った後うまい具合に故障するようにすることだったりするなんて話を聞いたことがあります。
丈夫でずっと使い続けられるような家電だとメーカーが困るから。
ということらしいですが、、、。

確かに、僕、
家の家電を10年くらい前に一気に揃えたんですけど、
ホント見事に故障してくるんですよねー。

こないだは、冷蔵庫を買いましたし。

あ、、、!
しょーもない家電話を長々と、すいません。

改めて、おはようございます。
タクさんです。

今日は、ワタシを定義しているものってなんだろねー?
なんて話を書いていきたいと思います。

 

最近は知らないんですが、
もう30年ほど前のね。
パソコンのプログラムの学習ってね。
なんか、プログラムを組む前に、設計図を描きましょうなんてのがあったんですよ。

四角とかひし形の中に、命令文を書いたの図を縦に並べていって、線でつなぎましてね。
分岐点のひし形の差し掛かると、ここで、こう入力されたらこっち。違ったらこっち。
ここでyesならこっち、noならこっち。
みたいなね。

で、プログラムの概要図なんかを作った後に、実際にプログラムを打ち込んで行く。
みたいな感じでね。
あんなの、今もやってるんでしょうかねぇ???

プログラムってね、まさに、二進法でできてるんですよね。

ほら、よくある性格判断のYES、NOで選んで行くような図があるじゃないですか。
YESかNOを選んでいって、最終的に「あなたはAタイプですー」みたいなね。
あれと同じ仕組みなんですよ。

ウェブサイトのプログラムはまたちょっと違うんですけどね。
あれは、ドキュメント形式をマークアップして行く形ですのでねー。
これは見出しで、これは本文。ここは注釈文と指定していって、
別のシートで文字の大きさはこれくらいで、行間はこれくらいで、
といった指示をどんどん盛っていくという感じです。

と、思いっきり話が逸れちゃいましたが、

僕らが、「ワタシ」と認識しているもの。

これらも全部、プログラムのように二元に分けたものを積み上げて構築されたものに「ワタシ」という概念を付け加えてるんじゃないかなーってね。
思うんですよ。

でね。
この積み木のように積み上げられたプログラムを、
適宜、組み合わせを変えながら、常に「ワタシ」を構築し直しているんですよねん。

これは好きで、これは嫌い。
こうあるべきで、こうあるべきではない。
こちらが正しくて、こちらは間違っている。

といったような二元の概念を積み上げて、
この積み上げられた全体像をワタシと認識し、
常にアップデートしてるって感じです。

アップデートとはどういうことかというと、

プログラムを構築し直して、成長するというのもそうですが、

例えば、
友達といる時の私。
会社にいる時の私。
家族といる時の私。

と、時と場合によって、積み上げられている積み木を積み変えてもいるんですよね。
演じ分けてるといってもいいかもしれません。

会社では、こう振る舞い、友人の前ではこう振る舞い、家族の前ではこう振る舞う。
みたいにね。

そして、何かが起これば、積み上げられた積み木に書いてある選択肢に沿って判断をするというわけです。

こういう時は、こう振る舞う。
AとBでは、Aが正しい。

といった風にですねー。

その証拠に、私とはなんだろう???
と観察してみると、これって一言では到底表現できないんですよね。
多角形で、時と場合によって、常に変わってるんです。

そして、僕らが常に探求し、探し求めているのは、この積み木のパーツなんです。
正しい選択肢を自分にどんどん取り入れて、積み木をどんどん積み上げていくと、
その先に完全なゴールがあるはずだ!
という信念のもと、より正しく、より正確な積み木パーツを探し求めているというわけです。

そして、遥か先にある「真理」を手に入れらたとしたなら、
もう選択に迷わなくなるのではないか?
という思いも抱いたりして、

そんな「真理」の積み木パーツを探し求めるんですよねん。

でもね。
この積み上げられた積み木ってね。
実在してないじゃないですか。

無いですよねぇ。
無いけど、心の中に、こちらが正しくてこちらが間違いと架空の積み木をこしらえてるだけですよね。
そして、この積み木がなきゃ、「ワタシ」も存在しません。
「ワタシ」の構成材料も、この判断が書いてある積み木が集まって構成されているわけですからねー。

これらの積み木は全て架空のものであり、。
そして、これが架空だとすると、当然、「ワタシ」というものも架空のものだというわけです。

全ての積み木は、実体のないルールブックのようなものであり、
僕らは、このルールブックに洗脳されちゃってるんです。

二元とは洗脳された世界なんですよねー。

まあ、洗脳とかいうと、ちょっとイメージが悪いかもしれませんが、
夢のようなものなんです。

この積み木をどんどん外していくと、「ワタシ」は消えていきます。

「ワタシ」はどこに在るのか?

それは、こちらが正しくて、こちらは間違いだとしている考えの中にあるのか?
と問うてみると、そこにはありません。

この体の中にあるのか?というとそこにもない。
ありとあらゆる積み木の中にも「ワタシ」はおらず、
あらゆる積み木が取り払われた時、
構築された積み木の世界ではない、元々の地平線が現れます。
最初から、ワタシはおらず、
そして、積み木にも実体がなかったという「当たり前」のことが明らかになるんですよねん。

もちろん、積み木に実体がないからといって、
その働きがなくなるわけではありません。

ただ、積み上げられた積み木に後付けされてた「ワタシ」は単なる概念でしかないことを知っちゃうんです。
ホエーーー!!!
「ワタシ」という概念は、全ての動植物が持ってる当たり前の概念だと思ってたけど、
人間だけが持ってるものやったんか一!
と、知るんです。

しかも、この「ワタシ」って複雑な言葉があるから生じるものだったりするんですよねー。

この辺のカラクリが明らかになってくればくるほど、ビックリするとともに、
目の前が、サーっと晴れてくるんですよねん。
全く変わらない風景が、変わらないまま、全く違うものになるんです。

変な表現ですが、何にも変わらないんですが、真理はもうそこにすでにここにあり、ここ以外のどこにもないという感じでしょうか?

なんていうか、もう全て大丈夫!なんですよねー。最初っから。
「ワタシ」という定義だけが、大丈夫じゃないを演じてただけだったんです。

これは、永遠の安心を保証するものじゃないんですが、
安心じゃなくてもいい!ということを知るんです。
大丈夫じゃないという思考が起こることが、大丈夫だったんです。

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