はーい。
おはようございます。
タクさんです。
僕らってね。
時間についてのいろんな誤解を持ってたりするよねーって思うんです。
そもそも、時間ってないんですけどね。
でも、時間という概念を使うことによって、ストーリーを仕立てあげることによってしか、
僕らは世界を構築できませんので、そういう使い方としては、何ら問題はないんです。
ただ、構築された時間に対しても、ちょっとした誤解があるんじゃないかなーって思うわけです。
って、これだけだと、
「ちょっと何を言ってるのかわからない???」
ってなりますよねぇ。
ツイッターやfacebookから来ていただいた方は、もう答えを先に書いてますんで、
お分かりですよね。
はい!というわけで、
よかったら、ツイッターやfacebookのフォローお願いします。毎日何かしらアップしてます。
うん。
SNSの宣伝をしたところで、本題にいきます。
僕らが時間を考える上での誤解についてですが、
この誤解とは何か?と言いますと、
「原因が結果を生む」という誤解をしてるんじゃないかなー?
ということなんです。
僕らってね。
ついつい、
原因があって、結果が生じてると思ってたりするじゃないですか?
でもね。
よくよく今までのことを観察してもらいたいと思うんですが、
必ず、最初に結果がありますよねぇ?
その上で、後から原因を探してきてくっつけてるんですよね。
つまり、結果があって、そのあとに原因を後付けしているわけです。
なのに、頭では、原因が結果を生じさせたんだ!と逆に理解しちゃってるんですよねー。
僕らの記憶ってね。
自分自身は正しい!と思ってたりするんですが、実は結構曖昧なんですよね。
そして、この記憶って、思い出しているというよりは、でっち上げられてると言った方が近かったりするんです。
僕らは起こったことに対して、その原因を記憶の中に求めるんですが、
この時って、起こったことに対するその時の感情や思考によって、つじつまの合う記憶を引っ張り出して来たりするんです。
例えばね。
「ああ、駅のホームに着いた途端、目当ての電車が出発しちゃった。。。」
と残念な思いを感じている時は、
その残念な思いに沿う原因を後付けしようとします。
つじつまを合わせようとするんですよね。
「やっぱり、アタシってば、ツイテナイのよねぇぇぇ。あの時もそうだったし、この時もそうだったし、、、」
みたいな感じでね。
そして、原因と結果のストーリーが作り上げられ、それに巻き込まれちゃったりするわけです。
でも、よくよく思い返してみれば、
いつでも先にあるのは結果なんです。
そしてその結果に心の何かが引っかかった場合に、原因を後付けしているわけです。
※ちなみに、引っかからない大半のことはスルーされています。
で、その流れを頭の中で反転させて、原因が結果を生んだと理解するんですよねー。
で、この「原因と結果」という概念を受け入れた結果、
今のこの行動は未来にどんな結果を及ぼすんだろう?
といったことも、常に予測しておこうとするわけです。
この予測が予測通りに行けば、そのことは、スルーされますが、
予測が外れると、途端に失敗の記憶としてインプットされます。
これ、面白いことにね。
「思わず大成功しちゃった!」
「なんかわからないけど、臨時収入が入っちゃった!」
みたいな場合でも同じで、
「思わぬ臨時収入はアテにすべきではない。。。」
といった観念として蓄えられたりするわけです。
そして、この予測が立たないことに不安を覚え、
不満を解消するための予測に力を注ぎ込むんですよねん。
これが、探求を生み出すカラクリなんです。
今も未来も常に未知です。
そして、記憶は感情や思考のストーリーを補足するためのモノに過ぎません。
そして、僕らはこの未知から逃れることはできません。
でね。
この未知こそが、僕らは自由であるというということ。
そして、何にも縛られなくていいということの証明なんですよね。
この予測できない未知を、許してあげること。
そして、予測できないことによる不安や不満を抱きしめてあげること。
これが、探求の終わりへの入り口なんです。
▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!