Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

意味や根拠という麻薬

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あらゆることは本来、無意味であり、無根拠です。
だから、自分というものもいません。
体すら、自分ではありません。

ただし、体は体として機能はします。
僕らは、この体の機能と自分という観念を妙に結びつけちゃうことによって、
自分の体、そして自分の思考、自分の信念。といったように発展させていってるんですねー。

そして、この「自分の」という概念を共有して、社会や経済を成り立たせているというわけです。

だから、ついつい、僕らは目の前の世界を見るときに、この「自分」を通した方の世界だけを見ちゃうクセがついちゃってるというわけなんです。

ですが、よーく思い出してみてください。

僕らは、言葉すら話せないときは、このクセはありませんでした。つまり自分はいなかったんです。
なので、このクセを通さずにちゃんと、ありのままの世界を見ていたんです。

そして僕らは言葉を覚え、この世界に言葉を代入させていくことによって、
いつしか言葉で代入された世界だけを世界だと認識し、言葉を当てはめる以前の
ありのままの世界を覆い隠しているというわけなんですよねー。

 

結構あったりする誤解としてね。

なんか「それ」に気づいたら、今まで通りの世界の見え方とは変わってしまうのでは??
といったことを聞いたりしますけどねー。

まあ、確かに、見抜かれちゃうことによって、副作用的に見え方は変わるかもしれませんが、
同時に、僕らが世界を見るからには、何かしらのレンズを通さないと見ることもできない。
といったようなことも見抜かれちゃうので、
なーんていうか、世界の掴み方に対するこだわりが減っていくという感じなんですよね。

赤いメガネかけて世界を見たら、そりゃ世界も赤いし、
青いメガネをかけて世界を見たら、そりゃ世界も青いですがな!

ってことなんですよね。

ただし、メガネを外すと、何もつかめません。
そして、僕らは、掴まなきゃ何も始まらない!って思ってたりするわけですが、
掴まれた世界というのは、いわば、絵に描かれた世界であって、これはもうそれそのものじゃないじゃーん。
ってことですのでねー。

別に僕らが何を掴もうが、掴まないでいようとしてようが、その行為者もまた、
映画の世界のストーリーの中にしかいてないんですよね。

にゃはははは。
面白いもんですね。

そして、僕らが何かをつかむ時、そこに意味や根拠もセットになってくっついてきます。

僕らが、何かを掴まないと始まらない。
という誤解を抱いているうちは、この意味や根拠への探求を続けちゃうということなんですよね。

でもね。
湧き上がってくる楽しさや、自分が好きなことって、意味や根拠の中にはないんですよね。

後付けすることはできますので、こういう根拠で私はこれが好きなんだ。と思ったりはするんですけどね。

でも、起こること。湧き上がることはいつでも衝動的なんです。

だからね。
やりたいことを探そうと、意味や根拠を探したりしちゃうと、見失います。

また、楽しいことを、意味がないからといって締め出しちゃうと、せっかくの楽しみをフイにしちゃいます。

意味や根拠に惑わされると、僕らはますます幻想に取り込まれてしまうんですよねー。
すると、子供の頃は毎日のように感じていたワクワクを忘れちゃったりもするわけです。

そんなん。勿体無いですよねぇー。

意味や根拠へのこだわりが度を過ぎると、完全に習慣化してしまいますからねー。
まさに麻薬のように働いちゃうというわけです。
そんな禁断症状を防ぐには、
思いっきり、バカに見えるような意味不明なダンスも効果的な方法のひとつです。

なので、意味や根拠に惑わされとるなーって思った時にはね。
思いっきり意味不明なダンスを踊ってみたらいいんです。
自分で自分が恥ずかしくなるくらいにね。

言葉にならないスキャットで、歌をつけてもいいでしょう。

でも、できれば、誰も見てないところでするのをオススメします。

うんばっ♪うんばっ♪うんばっホッホ♪
うんばっ♪うんばっ♪うんばっホッホ♪

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