Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想のからくり

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思考を巡らすというのは、耳元で自分に向かって話を聞かせるのと同じ現象です。
これ自体は、単なる音ですので、鳥のさえずりと一緒ですが、言葉となった時点で、僕らはその言葉を意味付けしてしまうことからは逃れられません。

もしこの耳元の言葉が、パプアニューギニア語のような聞いたこともない言葉だったのだとしたら、何の影響も受けないのかもしれませんが、自分の思考は、自分が知っている言葉を使ってなされますからねぇ。
もう意味づけからは逃れられないというわけです。

つまり、思考と言葉。そして意味付けはセットになっているというわけですね。

 

そして、意味付けされると、その意味に対する反応が起こります。
この反応からも僕らは逃れられません。

これは条件反射のように起こりますからねー。
でね。
この反応は身体にも起こるんです。

石が飛んできたら、身を守ろうとします。
すると、体が身を守ろうとする動きを取りますよね。

これと同じで、実際にはイメージであっても、反応が起こるので、該当する部分に力が入るんです。

ですので、
実際には石なんか飛んできてないのに、イメージがそのように起こると、体もついつい反応するんです。
すると、体験的には、石が飛んできたのと同じ体験をするわけなんですよねー。

もし、実施に石が飛んできた時に、その反応でなんとかやり過ごせたのだとしたら、記憶しておいて、次に同じようなことが起こったなら、同じ反応を実行させようとするわけです。

ちなみに、記憶をしているのは、誰でもありませんよね。
機能的にそう起こっているわけです。

なので、このシステムには行為者は存在していません。

コンピュータのプログラムが実行される時に、誰もそのプログラムを動かしていないのと同じです。
水面に波が立つのも、水面がそうしているわけではありませんし、水面に打ち付ける風も、風がそうしているわけではありませんからねー。

まあ、そういうわけですので、思考は勝手に起こってきます。
そして、そこに意味付けも自動的に起こります。
意味づけに対する反応も自動的に起こるわけです。

なので、
よし、思考が起こるのを止めよう!としても無理ですし、
意味づけするのをやめようっ!って頑張ってみても無理なんですよねん。
もちろん、ガンガン体も反応しちゃいます。

そして、今まで、目覚めとか、非二元といったような話を何年も聞いてきて、わかってきたのに、
まだ思考も起こるし、意味づけに反応してしまうやーん。。。

ってね。
虚しさを感じたりする方もおられるかもしれませんが、
そりゃ、それは当たり前ですので、虚しく感じる必要なんてないんですよねー。

じゃあ、もう打つ手なしじゃん!
どうすりゃいいのよ!

ってなると思うんです。

ここで、誤解があるのは、苦の正体と目的を見誤ってるところなんです。
苦を取り除くには、思考を起こらなくする。
辛い記憶や反応が起こらないような自分になる。
という事では無いんですよねー。

僕らは、思考と心と感覚が合わさった体験をして、
その体験の中に苦があるんだと勘違いしているんですん。

そして、その苦を取り除くためには、
その元となっている思考や感情を変えるか?
もしくは無くしてしまわなきゃいけない。
と思っているんです。

でも、苦は実はそこにはないんです。

そのことを見抜いちゃうこと。
それが見抜きなんです。

体の感覚と心が機能すると、幻想の体験が起こる。
そして、この幻想だけを真実として受け取っていたこと。

単にそのことを見抜くだけなんです。

青の絵の具と黄色の絵の具を混ぜると、緑になります。

どう見ても緑にしか見えないけど、実はこれは緑なんかじゃない。
単にそう見えているだけだということを見抜くという感じです。

からくりの見抜きです。

は???
ってなられる方もおられるかもしれませんが、
ま、この辺りは、また、詳しく書いてみますね。

 

 

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