Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

そう、まるで、坊主の中学生を見るかのように、、、。

f:id:takuteto:20181218192209j:plain

おはようございます。
今日もサウナ大好き、タクさんです。
今週は忘年会などが重なり、サウナに行けておりません。

ああ、冷たい水風呂がワシを呼んでいる。。。

さてさて、
僕もよく質問をいただくのが、
「行為者がいないっていうのがわからん!!!」
っていう質問なんですよね。

これ、わからんのはある種当然とも言えるんですが、
今日はこのことについて書いてみたいと思います。

 

ま、なんていうか、
僕だって、
「そりゃーワシもわからん!」
って話なんですけどね。

えー!そんなんあかんやん!

って言われそうなので、もう少し続けますね。

まあ、そもそも、分かろうとするからには、
その大前提には、わかる自分!というのをガッツリ作り上げちゃったりしてる。

つまり、わかるわからない以前に、もう確定事項として、
「自分」は居る!

と、いうことにしてしまっているんですよね。

居ることにしているからには、居るわけですので、
その自分が「行為者である自分がいない??」
っていうのは、わかるはずもないんですよねん。

ちなみに、「わからん」には、自分という大前提の必要性はありません。

どうなってるんや!
って、なった時に、何かをつかもうとしますよね。
その時に、「自分」という観念を自動的に作っちゃう。

僕らは、そういうクセを持っているんですよね。

なので、ここは理由を探るということは一旦置いておいて、
一度、いると思っている自分はどこにいるんだ?
ということを確かめてみたらイイと思うんです。

「は、、腹が痛い!!!」
って思った時に、その腹痛の感覚、それ以外に何かあるのか?
それを確かめてみるんです。

いや、痛さを感じてる自分が居ますよ!
って思うかもしれません。

でもよくよく観察してみると、痛さの感覚と、それを感じている自分。
これって本当に分かれてます??
もしかして、そこにあるのは感覚だけじゃない?
ってことなんですよねー。

これは、痛みとかそういった身体の感覚だけじゃなく、
感情や思考も同じです。
そこにあるのは、その起こってることだけしかないんです。
その中に、自分という思考の解釈も含まれるんですよねー。

ただ、この辺が、聞いた時はなんとなーくわかったような気になるんだけど、
やっぱりよく実感出来ないんだよねー。
なーんて思うかもしれません。

そんな時は、準備運動として、
今日のブログのタイトルにもあるように、
「そう、まるで、坊主の中学生を見るかのように、、、。」
というのをやってみるのをオススメします。

???
ってなってる方もおられそうですので、
解説いたしますと、

あなたにとって、とーってもどうでもいい人。
そんなことを言ったら失礼かもしれませんが、
街ですれ違って、もっとも気にならないタイプの人っているじゃないですか。

あなたにとって、そういう人を1人選んでみるんです。

それが、
僕にとっては坊主の中学生男子なんですけどね。

無害そうなおじさん。
でも、
スーツのサラリーマン
でも、
ヒゲのおじさん。
でも、
ヒゲのOL
でも、
どんなタイプでも構いません。

あー、街にいても一切スルーしてしまうわぁー。
って人をね。1人選んでみるんです。

でね。
自分に起こってると思ってること。
これをね。
坊主の中学生に起こってることにしてみるんです。
坊主の中学生が、何やら考えておる。
恋愛に悩んでおる。

みたいにね。

するとねー。
自分に起こってるという感覚よりも、
幾分、人ごとのように感じられるかもしれません。

これは、深刻さをやわらげる為!という事じゃなく、
主体を変えたら、感じ方が変わるということを発見してみてほしいんです。

すると、もしかしたら、深刻さというのは、
「自分」という分離感の中だけにあるのでは?

そして、その自分って、何かをわかろうとする、認識しようとする働きの中だけにしか存在しないのでは?

なんていう気づきのきっかけになるかもしれません。

わからないと言う無根拠の中、単に在ってみると、
なんにもないなかで、何かを必死に掴もうとする一つの働きに気付けるかもしれません。
そしてその働きが、自分を装っていたんですよねー。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします。