Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

事実と真実の違い

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おはようございます。
タクさんです。
事実と真実。
この二つが実は全然違うものだったとしたら。

今日はそんな可能性について書いてみたいと思います。

僕らが事実をつかみ取ろうとする時、
何かしらの根拠を必要としますよね。

そして、その根拠がないとどうにも不安定に感じてしまい、
それが事実なんだ!と納得できない。

なんかそんな風に感じたりしますもんねぇ。

 

そう。
事実とは、根拠や理由、証拠が必要となるんです。
だから、僕らは事実を知ろうとする時、
証拠や根拠、理由を探し求めます。

そうやって事実を掴み取っておくことで、
ちょっとした安心を得ようとするわけなんです。

では、真実とはなんでしょうか?

真実とは、事実や根拠によって成り立つものじゃないんです。

だって、真実ですもん。
それが、根拠より、証拠より先立つ物。
それが真実ですもんねー。

真実より先にそれを成り立たせる根拠があるのだとしたら、
それは真実ではなく、根拠に基づいた事実ですからね。

ちょっとややこしいですかね?

つまり、事実とは、それを事実とするための材料が必要だというわけです。
それがないと、事実は成り立ちません。

そして、真実は、どんな材料よりも先立つ物になるというわけです。

さて、事実は根拠の基づきますが、その根拠を歪められたものだとしたら、
その事実は嘘という事になりますよねー。

なので僕らは事実が嘘なのか本当なのか?確かめるためにも、
その根拠を掴もうとしちゃうわけです。

では、その根拠が勝手に作られたルールのようなものだったとしたらどうでしょう?

太陽は東から昇り西に沈む。
これは事実のように見えますけど、
太陽が昇る方向は、東って事にしておこうねー。
じゃあ、東の反対側どういう事にしておこうか?
それじゃあ、とりあえず、西って事にしておこうか?
ってね。
まるで、ママゴトをして遊ぶ時のように、
あなたはお母さん役ね、僕はお父さん役。
みたいな感じでね。
ルールを共有している間だけ、そのルールが根拠になるというわけです。

ありとあらゆる事実を成り立たせる根拠が、
もしかしたら本当だとは限らないのだとしたら?

あらゆる事実は、ウソとは言いませんが、本当とも言えないのかもしれませんよね。
つまりどっちでもない。
ただ、その根拠を採用している間だけ、それを事実だという事にしている。

ボールを手で触ったら反則というルールの中でだけ、サッカーの試合が成り立つ。
みたいな感じでねー。

そして、もしかしたら、僕らは必要以上に根拠や事実を大げさに捉えているのかもしれないんです。

また、
僕らが真実を求める時もまた、事実をつかむ時と同じように根拠を探し求めたりしちゃいます。
でも、真実とはこうである!と決めた時点で、その真実は事実となってしまうのかも知れません。
そうなると、真実を定義づけた途端、それは、事実となってしまい、
そして、それは単なる事実になっちゃったりするんですよねー。

「もう、だったらどうすれば良いのよ!」
って話ですよね。

そんな時は、あまり事実や根拠にこだわらず、
単なる無根拠さの中にくつろいでみたら良いんじゃないかなぁ〜って思います。

すると、いかに今まで、根拠や事実を大げさに捉えていたのか?
なんて事を発見できるかもしれません。

そして、無根拠さの中にゆったりとくつろぐことだって出来るんだということの発見は、あなたの中にある、どこか緊張していたエネルギーを緩ませてくれるんです。

たまには、緩んでくつろいでみてくださいねー。

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