Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ダメダメの奥にある深い愛情

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へい。
おはようございます。
タクさんです。

ひゃー。寒いですねー。
みなさん、お疲れになったりしてませんでしょうか?
ちゃんとタマにはサボってますでしょうか?

自身を疲弊させる行為は、
自分で自分を貶める行為である。

これ、当然ですよね。

自分で自分に鞭を打てば、
鞭を打たれた自分はそりゃー痛いですもんねぇ。
その痛みがヨロコビなんだぁーーー!
って人は、まあお楽しみになればいいと思うんですけどね。

やっぱり痛いし楽しくないのなら、やめればいいわけですが、
なぜか、それはやめてはならない!
なんて妙なことを考えてしまうのも
これまた自我ちゃんの悪い癖だったりするんです。

 

例えば、どこかのブラック企業のように、
誰かに目の前で、お前はダメだー。お前はダメだーってね。
連呼され、自分はダメなイメージを常に目の前で見せつけられ、
さらにはそのイメージの範囲だけが現実という世界なんだ!
なんていう暗示をかけられ続けたとしたなら、

そりゃー疲弊しちゃいますよね。

でもそれと同じようなことを自分が自分にやっちゃうんですよね。
その威力たるや、自分で自分を呪うわら人形を打ち続ける以上のものがあります。

だって、自分で言い聞かせた、ダメなイメージを
深刻さを伴った現実として見せられ続けるんですもんねぇ。

悪夢そのものです。

しかも悪夢って、それが夢なんだとわかるまでは、現実として振る舞いますからね。
現実の大きな壁のように感じられたりするわけです。

何度か言ってると思いますが、現実っていうのは思考や感情、言葉が合わさったモノで構成されています。

思考がなけりゃ現実は存在出来ません。

つまり、思考の中にしか現実って無いんですよね。

そう言われると、思考なんてどうにでもなるんだから、現実だってどうにでもなるんじゃ無いのん?
ってね。
思考をコントロールできそうに思ったりするんですが、それが出来りゃ苦労はないわけでございまして、思考はコントロールできそうでいて出来ない。という妙な特性を持っています。

水は掴めそうで掴めない。でも、一部は掴めそうな気がする。
なんかそんな感じでしょうか?

思考っていうのは反応で生じてきます。そして、生まれた思考はまた新しい思考を生んだりするわけですね。
思考によって生まれた思考。
つまり、川下の方にある思考はなんとなく選択肢がありそう。
コントロールできそうな気がしますよね。

でも、最初に生じた反応によって生じる思考はコントロールが出来ないんです。
ただし、反応の仕方は訓練によってある程度は変えることはできるんですけどね。

ニンジン嫌いの人が訓練によって、ニンジンが食べられるようになる。
みたいな感じでしょうか。

ま、その辺の細かいことは置いておいて、
僕らって、言葉を聞くと反射的に思考のイメージを構築しようとする。
なんてクセを持っています。

その言葉に深刻さがあればあるほど、強くイメージを構築しようとするんです。

例えば、
「空は何色ですか??」
ってね。
聞かれたとしたら、記憶の中からササっと空のイメージを作り上げたりするわけです。

まあ、空の色なんてあまり深刻さは薄いので、
スルーしちゃったりするわけですが、
自分にとっての一大事な案件についてはそうはいきません。

これを解決しておかないと大変な事になる!
なんていうような、言葉には敏感に思考のイメージが働くんです。

そして、僕らが一番よく聞いている言葉は、自分が発している言葉なんですよね。
また、発しないにしても頭の中で連呼している言葉もそうです。

そして、その自分の言葉を聞いては、自分でイメージを構築するわけです。

そして、構築されたイメージに深刻さが加われば加わるほど、現実感、リアル感も増すわけなんですよね。

ま、そういうわけですので、自分を愛でる事。自分を労わることって大事なんです。

ダメだー!って思ってる自分のクセも、認めて受け入れてあげたら良いんです。
きっとそのクセの中にも、自身を守ろうとする深い愛情があったりしますからね。

自身を愛でるのに評価の基準は必要ありません。そこは無条件で良いんです。
それがちゃんと板についてきた時、自分を通して表現されようとするイノチの表現が姿を現してきてくれるんです。

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