Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

イノチのポテンシャル

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「ぐっ…! くそっ、静まれ俺の腕よっ……!!」

「――ふう。この痛みと苦しみは、闇の力を持たぬ者には分からないだろう……。 」
「邪気眼を持つ者にしか理解出来ないものなんだよ。邪気眼を持つ者にしかな……。」

「くっ、腕が反応している。「組織」の奴らめ、ここにいる事を感づいて来やがった……!」

はい。
おはようございます。
タクさんです。

冒頭の邪気眼のくだりは、重症中二病の有名な症例の一つでございますが、
今日は、中二病のことじゃなくて、
「イノチのポテンシャル。」
このことについて書いてみたいと思います。

 

イノチのポテンシャル。
それは、生命のエネルギーです。

僕らはエヴァンゲリオンのように電源ケーブルがあるわけではないのに、
心臓は脈打ち、免疫システムが機能し、呼吸を続けます。
充電したわけでもないのに手足は動き、
思考はアタマの中を駆け巡ります。

この動力源となっているもの。
それがイノチのポテンシャルであり、
生命エネルギーです。

全てはこのポテンシャルに満たされています。

朝に飲むコーヒー。
このコーヒーも元々は、
土から這い出した芽が太陽の光を浴び、
実が実り、コーヒー豆となったものを焙煎したものです。

そして、そのコーヒーを飲むことで、コーヒーとあなたは融合します。
そこで、コーヒーはコーヒーではなくなるわけです。

そうした循環をもたらしているのも、これまた、
イノチのポテンシャルが源泉としてあるわけですねー。

さて、
僕らの思考は、あくまでもその思考の中心からモノを考えます。
つまり、自分を真ん中に置いてものを考えるんですね。

そこから考えると、
自分が、エネルギーを吸収して、
そして自分が動けるようになっている。
自分が生きている。
といったような考え方をするんですよね。

でも、実際のところは、
源泉であるポテンシャル。
このポテンシャルが全てにおいて先立っているわけです。
つまり、思考よりも思考を成り立たせている頭脳や身体よりも、
ポテンシャルの方が先立っているんです。

普通は、手が勝手に意志を持って何かをすることってありませんよね。
「ぐっ…! くそっ、静まれ俺の腕よっ……!!」
ってなことはあまり起こらないと思います。

手はあくまでも自分が動かすものって、思考は思ってますからねー。

でも、源泉からしたら、僕らの体も思考も、源泉のエネルギーを表現してる一部。
手足のようなものに過ぎないものかもしれないんです。

僕らの思考は、まるで意思のない手足が意志を持つといったような。
なにやらそのような誤解をしているのかもしれませんね。

思考は、切れ目のない全ての中で、
自分という範囲をこしらえて、
この自分がこの範囲内での行為者なのである。
といった誤解をしてるって感じですかねー。

イノチのポテンシャルは全てに満ちています。
そして、その満ちているポテンシャルの表現の一部が現象として垣間見えているんです。

僕らの体も、目の前のコップも、
机も椅子も、全てはこのポテンシャルの表現の一部です。
そして、ポテンシャルによる表現は常に変化し続けます。
ただし、このポテンシャルには姿かたちはありません。
ポテンシャルがダンスをした時に起こる風。
それが、現象として起こっている表現なんです。
そしてそれに気づいてるあなたもその一部であり、気づいてる対象と
気づいてるあなたにも境界は無いわけなんですよねー。

僕らを構成している物質も、突き詰めていくと、
原子になり、原子は素粒子というモノではないエネルギーによって構成されているらしいんですが、
このエネルギーこそ、宇宙の原初にあるビッグバンのエネルギーそのものなんです。

そんな全てであるイノチのポテンシャルの中で起こる、カワイイ中二病。
それが思考だったりするのかもしれませんね。

でも思考はどうしても、範囲を作ります。
そしてその作られた範囲が、枠となり、その枠が息苦しさを感じさせたりもするんです。
そんな時には、思考は一旦お休みして、ポテンシャルのダンスに溶け込めばいいんです。
そこには、思考の範囲は存在しません。
責任者も行為者もいない。
そして選択すらない、自由があるんです。

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