Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分探しの終焉

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どこかに、本当の自分に出会うためのヒントがあるかもしれない。

なーんてね。
思っていたことが僕にもありました。

なんか、大学生の頃が、インドに行けば見つかる。
みたいな信仰があったようにも思います。

インドねー。
いやー。僕も嫌いじゃ無いんですけどね。
ラマナさんのアシュラムとか観てみたいですし、、、。

でも結局インドは行ったことがないんですよねー。

ほい。
おはようございます。
行ったことがある海外は、
イギリス・スイス・フランスしかない
タクさんです。

皆さんはどんな海外ライフをお楽しみでしょうか?

 

さて、
自分探しの終着点。
それは、自分は何者でも無い。
そして、それで良いし、それが良い!

なんかね。
そんな結論に落ち着くんじゃ無いのかなー?
なーんて思います。

もしね。
無人島にいるんだとしたら、
自分が何者なのか?なんて、どーでも良いことだと思うんですよ。

ワタシは王になるために生まれてきたのだー!
って無人島で叫んでみても、なーんにもなりませんからねぇ。

と、言うことはですよ。
何者かでありたいっていう思いって、誰かにそう見て欲しいっていう
プライドだったりするのかもしれないんですよね。

もちろん、プライドがダメだということはありませんが、
プライドや正義は、好き嫌いと同じようなものですのでね。

わしは、シイタケが好きだけど、シイタケが嫌いな人がいても良い。

という気軽な感じで良いと思うんですよね。

プライドや正義が、やけに大きくなると、
それは自分を余計に苦しめることになったりしますからねー。

で、そういった自分は何者なのか?といった考えをそろそろ辞めたいな〜
って思うのならね。

本当の自分なんて探すのは辞めちゃって、
逆に自分をどんどん無くしていったら良いんじゃ無いかなぁ。
なんて思います。

肩書きやこうあるべき自分なんて観念もほっておいてみるんです。

何もかもを外していくと、そこに残る自分はどんなものなのかな?
もしかしたら、それこそが自分の正体なんじゃないのかな?
っていう事なんですよね。

あらゆるものを外してみた時、気づくのは、
持っていたもので安心を得られると思っていたけど、
その持っていたものが、不安も作り出していたんだなー。
ということなんです。

そして掴んだと思っていたあらゆるものは、
実体のないイメージでしかなかったんです。

そんなイメージでしかない枠が自分を締め付けておっただけだったりするんですよね。

一切合切の自分を無くした時に、目の前に残るのは枠に縛られない全てだったりするんです。

それは、
「ああ、実体のない無色透明のイメージで、目の前の全てを覆い隠していただなんて」
「そんなアホなー!」
っていうカラクリが見破られる瞬間なんです。

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