Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

なんにもなさを思考に持ってくると起こる誤解

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はーい。
どうも。
タクさんでございます。

インフルエンザが流行っとるそうですねぇ。
みなさん気をつけてくださいね。

僕も週末はセッションがございますので、
かからないようにしようと、
外ではマスク装備でございます。

お、オマエ、、、
「起こってることが単に起こってるだけなんですぅー」
とか、言ってるクセに、マスクとかおかしいやないかーい!

ってねー。

突っ込まれそうですが、
かかってたまるかーい!
って思いもね。
やっぱり起こりますのでね。イメージですがねー。

それで良いわけです。

もちろんね。
そやって頑張ってても、感染しちゃう場合もあるかもしれませんが、
その時は、予約してくださってる方に「ごめんなさい」と謝って、
ちゃんと寝て治すわけです。

それなら、それが起こってるだけだというわけでね。
それで良いわけなんですよね。

 

「蜃気楼のように起こってるように見えてるだけなんですー。」
「そこに行為者はいないんですー。」

みたいなね。
こういう非二元のメッセージをねー。

なんていうか、理解という土壌に持ってくると、
それはそれで、変な誤解が生じたりしちゃうんですよね。

この話って、なにかが特別な何かに変わる。
ということじゃありませんのでね。

「悟った人は特別な感じになるから、苦から解放される。」

といったこととは違うわけです。

ただ、苦というのは、味わおうとすると、
結構手順と空想力(イメージ力)が必要なんです。

まず、「私とその他」という観念が必要になって、
その観念の中で展開するストーリーが必要となって、
そして、「私のあるべき姿」といった別の観念も必要になって、
さらには、そのあるべき姿に到達していない「私」という観念も
こしらえてやらなきゃならんわけです。

そうやって初めて、苦というものがやっと出来上がるわけです。
さらに、その苦を存続させるには、
常にこの観念を思い出してあげて、その思いから出てくるストーリーをね。
頭の中でリフレインさせてやらなきゃならないんです。

ね。
結構な手順と空想力(イメージ力)が必要でしょ?

実のところ、苦の原因で苦しんでいるというよりは、
その手順とそのイメージを保つのに疲れてるってところがホントのところだったりするんですよね。

そして、そのことはみーんな知ってることなんですよね。
あえて、見て見ぬ振りをしているだけなんです。

つまり何が言いたいのか?と言いますと、
特別な状態を作ってそれを観ている間は、そりゃその観ているものを体験してますよねぇ。
っていうことです。

悟りや悟った人というのがいるんじゃなく、
それが特別なことじゃなく、

みんな、元は単なる水平線の中で、イメージで作ったストーリーを観ている間だけ、そのストーリーを体験してる。

つまり、特別なのは、ストーリーを観ている状態の方なんですねー。

でね。
もちろん、その体験の中には、
「解放された体験」というのもあったりするわけです。

そりゃー、何にもないを思考のまな板の上に持ってきたら、それは虚無的な感じに感じられたりするのも当然で、
ダイヤモンドが素晴らしいとされている世界に、石ころ持っていっても相手にされないのと同じでね。

んなもんをストーリーとしてこしらえたら、そりゃ、虚しくも感じますよねえ。
ってはなしなんですよね

よく言われている、体験の後に来る
目標を失う感覚と恐怖感
っていうのもそれと似た感じです。

単に元々の水平線をストーリー上に持ち込んでるだけなんですよね。

ま、そういうわけなので、いわゆる悟りの体験は忘れてしまったら良いんです。
体験になっちゃってるのならねー。

ま、忘れようとして忘れられるのなら苦労はしませんってことですので、
あー。この体験を元にストーリーをこしらえようとしとるのねー。
ってね。
単に観てあげるといいんですよね。

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