Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無根拠への納得

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ほい。
おはようございます。
寒さが苦手な1月生まれの
タクさんです。


いやー。
もう来ないのかな?
なんて思ってたんですが、やっぱりやってきましたね。
寒さってやつが。

僕ねー寒いの苦手なんですよねー。
服も重たくなっちゃいますしねぇ。

皆さま
風邪をひかないようにしてくださいね。

さて、
僕らは何かに注意を払うことで、
何かを掴みとろうとします。

そして、注意の焦点を狭めることによって、
これは〇〇であるか、そうではないのか?
の判断をするわけです。

判断の筋書きが、
理にかなっている場合に僕らは納得をするというわけです。

 

注意を払い、そして納得したい場合にはその根拠が必要になってくるんです。

なので、探求というのは、根拠を探し求める旅となります。
その根拠に納得ができた場合、一旦解決になるわけですが、

完全なる根拠はこの世には存在しません。
全てが移ろい、全てが変化していきますからねー。

そして、一旦納得した根拠も必ず納得いかない足りないものとなっていきます。
するとまた、根拠を探す旅が始まるんです。

なのでねー。
探求の先に「ゴール」は無いんですよね。

では、「それ」とは何なのですかい?
といいますと、
「それ」とは無根拠のものです。

む、、、むむむ無根拠!
それじゃアカンやーん。
ってね。
思うかも知れませんね。


もちろん、適当なんですー。みたいな無根拠ということではなくてですね。

そうじゃなくて、無根拠の根拠。
無知の知。
わからんの理解。

と言った方がいいかも知れませんね。
余計にややこしいかも知れませんが。

無根拠の根拠、無知の知とは、
何でわしは今まで根拠にこだわっておったんだ?
その根拠ってもしかしたら、正当性を担保するようなものですらなかったのではなかろうか?
知識も理解も、もしかして、何かの正当性をを担保できるものなんて無いんじゃないだろうか?

ということに気づく誘いなんです。

非二元にもなんら根拠はありません。
この根拠の無さを受け入れられた時、
今までの根拠へのこだわりが手放されるんです。

有るものと無いものがあるわけでは無い。
正解と間違いがあるわけでも無い。
ただそういう思考が起こってるなら、それが起こってるだけ。
解釈が起こっているのなら、その解釈が起こっているだけなんですよね。

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