Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

恐怖や不安と深刻さは別物

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恐怖と深刻さが一緒になる時、それは苦となり、
不安と深刻さが一緒になる時、それが苦となるんです。

でね、
苦が生じた時、
僕らは苦は取り除かなきゃならない!という思いが生じるんです。
なぜなら、苦は実際には無いものだとどこかで知っているからなのかもしれませんね。

つまり、違和感があるんですよね。

ただ、苦というものは実際には存在しません。
なんていうか、卓越したイメージが作り出すトリックのようなものなんですよねー。
深刻さが恐怖や不安といったような負の感覚(実際には正も負もないんですけどね!)にくっついていた時に、苦として生じているだけなんですが、
僕らは、恐怖や不安。これ自体が苦の原因なんだと誤解をしちゃったりするわけです。

だから、恐怖を鎮めるにはどうすればいいのか?
不安を解消するにはどうすればいいのか?

といった方法ばっかりを探し求めちゃったりするわけです。

 

ここで、探求の道筋が間違っちゃうなんてことになったりするんですよねー。

でね。
あらゆる苦はありません!
なんて言葉を聞くと、その境地を探そうとするわけです。

いわゆる悟りの境地というのもそうですよね。
そんな境地はどこにも無いわけですが、あえてあるとすれば、
ここにあります。
つまり、あなたはすでにその境地にいるわけですが、
イメージの中にある現実というベールでそれを覆い隠しているというわけです。

ま、本当は全然隠せてないんですけどね。
それがちょっと可愛くも面白いところではあるんですけど、、、。

さて、恐怖や不安や怒りや悲しみ。
いわゆる負の感覚(しつこいようですが、感覚に正負はないんですけどっ!)には、
これら単体は苦ではありません。

もちろん、ふつうに怒ったり怖がったりはありますし、
悲しけりゃ泣けばいいし、ってそういうのはあるんですが、
それは、なんていうか、そこに深刻さがくっついたような妙な重たさというか、
収縮した感じは実際には無くて、苦でも快でも無いといった感じ。
むしろ愛や生命感すら感じるわい。って感じなんですが、
そこに深刻さがくっつくから苦になるんです。

では、その深刻さっていうのは、どこから生じてくるんじゃいっ!
と言いますと、
それが、ぎゅっと縮こませられたエネルギー。
すなわち、「自分」という観念からくるわけです。

自分とは、全体のエネルギーを無理くり小さな枠に閉じ込めたような感覚なんですよね。
なので、もうこのエネルギー自体がすでに収縮された深刻さを帯びているんですが、
それが、負の感覚(略)とくっついた時に、
「こりゃエライコッチャ!」と危機感とともに深刻さを表出させる。
とまあ、そんな感じなんですよねー。

この自分という観念は、今現在、イメージの中で感じているものの中で一番身近なものにペタッとくっつきます。
そして、くっついた時に、自分とそれ以外といったような分離を生むんです。

身体はもちろん、思考や感情や感覚。
さらには持ち物にくっついたり、運転してる車にくっついたり、
信念や信条、国という概念、性格、プライドとありとあらゆるものにくっつきます。

実際には実体がないので、逆に何にでもくっつくことができるっちゅうわけですねー。

そして、くっついている間は、その対象の大きさにギューっと収縮するというわけです。
ホントの自分の正体は「I AM」です。
「私は在る」という純粋な意識です。

意識は分断されません。
全てに偏在するすべての表現の元であり
同時に表現そのものです。

原子の奥にある素粒子を表現しているエネルギーだ!
といってもいいですし、
あらゆる表現を成り立たせるキャンパスだといってもいいかもしれませんが、
どんな例えをもっても、その例えの枠の中には収まらない「全て」なんですねー。

そもそもの苦しみの元は、この広大な全てをギューっと縮めるから、
窮屈になっておる。
というこの窮屈感が収縮されたエネルギーとして自然じゃない苦を生じさせていたんですよねー。

このぎゅーって縮まったエネルギーを緩めてあげるには、
いま注目している感覚から距離をとってあげると良いと思います。

まずは、言葉を置いておくんです。
そして、言葉を抜いた状態で感じる感覚も、そのまんまにして置いてみる。

そして、何もすることがない今にただ、佇んでみるんです。

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