Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

どう転んでも、私はサイコー。

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ほい。
おはようございます。

僕らってね、どう転んでもサイコーなわけです。
つまり、いずれにしても完璧なわけです。

「でも、私ってば、何も満足できないし、」
「愛もないし、」
「自然を目の前にしてもなーんにも感じられないし、」
「人を見てもバカにしか見えないし、」
「そんな自分も嫌いだし、、、。」

ってねー。
完璧とは思えない自分像がどしどしと現れてくるかもしれませんが、
それも含めて、もう完璧、サイコーなんです。

「私のサイコーさは、愛の有る無しごときに左右されるほど安っぽくないのだ!」
ってねー。

胸をはってやれば良いんです。

 

とは言っても、私は、あの立派な方に比べたらやっぱり劣ってるよね?
いくらなんでも、仏陀に比べたら、空海に比べたら、道元さんに比べたら、
ガンジーに比べたら、マザーテレサに比べたら、、

ってねー。
そんな御託も頭の中で浮かんでくるかもしれません。

こんな自分がサイコーだなんて、おこがましいんじゃなかろうか?
なーんて思ったりしてねー。

でも、そういった比較こそが無意味な観念でしかありませんのでね。

「カーッカッカッカ!そんな無意味な比較の観念に左右されるほど、私のサイコーさは安くはないのだ!!」

ってねー。胸を張れば良いんです。

いったい誰が、自分を閉じ込めてたんでしょう??ってね。
見てみたら良いんです。
誰が、私はあの人に比べると小さい存在だと決めてるんでしょう?
自分をコントロールする大きな存在は本当にあるのか?
みてみるんです。

自分を過小評価しようとしてたのは?
実際にはない枠組みを、あたかもあるかのように扱ってたのは?
その枠組みに従って自分を小さくさせてたのは?

すると、あ、
ワシを縛ってたのは、全部ワシやった。
ってねー。
そんなジョークが明らかになっちゃうんです。


神といったような何か自分以上のでっかいものが自分をコントロールしているわけでもなく、
運命や宿命といった何かが自分の道をあらかじめ決めているわけでもないんです。

神や運命や宿命っていう概念も、自分が取り入れて、自分で枠を作っていたんですよね。

なるほど、サイコーであるワシを縛り付けられるのは、ワシしかいなかったというわけか。
ってことが明らかになると、独り相撲のジョークに笑うしかなくなるわけです。

だから兎にも角にも、まずは無意識に自分を責めてることに気づいてみる。
そして、もう責めることをやめてみる。
自分を愛でてあげる。

ここから始めたら良いわけなんですよねー。
そして、これがゴールでもあるんです。

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