Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考を手放しても、思考は起こり続けますよん♪

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僕、子供の頃ね。
幼稚園の初日です。
そのときに妙に感じた違和感をいまだに覚えてるんです。


初めて教室に入って座ってた時に、
同じクラスの子に、あなた誰?名前は?って聞かれたんですよ。
そのときになんか凄く違和感を感じたんですよねー。

それまでは、親に名前を呼ばれたことはあっても、自分で名乗ったことってあまり無いですからねぇ。
なんか、へ???名前???名前ってなんだっけ???
ってな感じで少々焦った覚えがあります。

そもそも僕もあなたも「名前」では無いですからねー。
誰?と聞かれたら、名前を答えるの?ってのも初耳だったし、
そして名前を聞いた人もまた納得したような顔をしてって、、、
んんんん?それってお芝居やん!って思ったんですよね。
みんなマジでそうやってわかったふりをしてるのか???
ってどう考えても変ですもんねぇ。

とは言っても誰と聞かれて答えられる答えもないんですけどね。
多分、あなたは誰ですか?といった問い自体が成り立ってないんじゃなかろうか?
なーんてね。

当時は違和感の正体がよくわからなかったんですが、今になって思うと、
なんかそんな雰囲気の違和感だったと思うんです。

子供の頃は、ホントに大人のみんなもクラスメイトも
ワザとお芝居をしているのかな?と感じることが多かったんです。
全ての会話ややってることが、お芝居のように感じていて、
みんなノリがいいなぁって思ってました。
そして、お芝居だよねぇ?ってお互いが確かめるのは紳士協定で禁句になってるのかなぁ?
なーんて感じてたんですよね。

なんかこの感覚はかすかに今でも残っていて、
特に、仕事なんかで、数字に関する打ち合わせをしている時なんかに改めて感じたりもしながら、僕はノートパソコンにそれらしいことをメモしている風に見せつつ、ネットサーフィンをするんです。
退屈だから。。。

 

ま、それはさておき、大人になるに従って、どんどん知識量も増えていきますので、
知識量が増えれば増える分、頭の中のおしゃべりも活発になっていきます。
すると、いつしか、頭の中のおしゃべりがどんどん存在感を増していき、
「それはお芝居やん!」っていう思いも、この存在感に乗っ取られていき、
いつしか、その頭の中のおしゃべりに一喜一憂するようになってくるんですよね。
ま、喜ぶのは大歓迎ですが、つらい思いほど、何度も反芻しては不安を増幅させたりしてね。

そうそう、僕ね。アップルウォッチを愛用してるんですが、
アップルウォッチってメールが来たり、
今日の運動量はこんな感じ、とか、
何歩歩きましたぜ!とか、
心拍数上がっとるで!とか、
なんだかんだと通知してくるんですけどね。
大体の通知はパッと見て、ハイハイてなもんでスルーするんです。

みなさんだってスマホとか使ってたら、そんな感じでハイハイってスルーすると思うんですけどねー。

なんかそんな感じで思考のおしゃべりも、ハイハイご苦労さんってな感じでスルーしてやったらイイと思うんです。
たまに相手はしてあげてもね。

それが板についてくると、
僕が子供の頃に感じたお芝居やん!って感覚が
蘇ってきますので、多分みなさんにも、わかってもらえると思うんですよね。

思考のおしゃべりって、そんなに大事なことじゃないやん。
何を大事に扱ってたのか。。。
みたいなね。

「王様は裸じゃないか!」
みたいな感覚です。

思考を手放すっていうのは、なんかこういう感覚なんです。
別に思考が無くなるとか起こらなくなるってことじゃありません。
腹も立ちますし、怒りを感じたり恐怖を感じたりもするわけです。
ただ、思考のストーリーに対しての、
深刻さが、そもそも無いものを深刻に捉えてた。
みたいなことが単に明らかになるだけですのでね。

すると、一旦は深刻に捉えたストーリーも長く居続けられなくなるんですよねん。

そのストーリーはリアルでも幻想でもなく、
嘘でもホントでもなく、単にイメージとして起こってるだけであり、
そのイメージへの気づき。この気づきだけがずっとココにあったんです♪
この気づきはノリノリに表現されるありとあらゆるもの、それ自体と一緒であり、
このノリノリは喜びそのものなんです。

このノリノリさがあるからこそ全ては表現され、同時に気づかれ、
この営み自体がイノチそのものなんです。

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