Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我と気づき

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自我っていうのは実体のない概念ですからねー。
実際に自我というものはないんです。

なので、ないものを手放そうとしても、手放すもとがありませんので、
終わらない旅になってしまいがちです。

なんやねん!
ホントに自我ってなかったんか!
って知ること。

これが、自我からの解放なんですねー。
厳密に言うと、なにかが変わるんじゃなくて、
元々そうだったことを再認識する。
ま、なーんかそんなニュアンスが近いんです。

自我って、怒りとか思考とか感情とか悲しみとか、、、。
なんかそういうものだと思ってる方が多いと思うんですが、
それらは別に自我じゃないんです。

 

ちなみにね。
僕らの思考や感情、そして身体ってね。
別々のものじゃないんですよね。

感情や思考が起こってるときって、同時に身体も反応してるんです。
身体の反応なしに感情が起こることはありません。

だから、身体をゆったりと解してあげると、感情も楽になったりしますし、
体がこわばってると、感情もこわばったりします。

嫌な感情が起こると、そこから思考によるストーリーが展開しますし、
それらの感情や思考は身体にも同時に影響が起こってます。

ストレスは万病の元なんですが、
心の状態=体の状態ですから、そりゃ体調も悪くなるっていうもんです。

ただね。
色んな感情って、起こってくるわけですが、それがストレスになる原因は、
これらを固定化するからなんですよね。

ホントは固定化されているわけじゃなく、単に反芻されているんです。
この反芻をさせているのが、自我なんですが、
この自我っていうのは、
「これは自分である」という思考なんです。

この思考が信念化して、意識の奥深くに根付いているんですよねー。

では、この根付いている信念をどうしたら、べりって剥がせるのか?
と言いますと、それはやっぱり見ることなんですよねー。

見てるってことは、自分じゃありませんからね。
見ると同時に、見てるってことはこれって自分じゃないじゃん!って気づいていくって感じです。

僕らは空を見ることができます。でも空は自分じゃありません。
僕らは木を見ることだってできます。でも自分は木じゃありませんよね。
だって、見てますし。
客体ですしねぇ。

僕らは椅子に座った感触を感じることができます。
花の匂いを感じることもできます。
でも、椅子も花も自分ではありませんよね。

そして、
僕らは身体を感じることができ、
思考を観察することができ、
感情を知ることができるわけです。

つまりは客体なんですが、なぜかそれらを自分だとしているんですよね。

でも、身体も、思考も、感情も、
僕らが自分という存在を確立する前からずっとあったわけです。
それこそ、お母さんのお腹の中にいた時から身体はあったわけですからねー。

僕らは1歳から2歳くらいにかけて、徐々に自我を確立させていったわけで、
身体や感情より後付けで確立させてきた意識なんですよね。

身体や心を自分だと思うクセがこのころから出はじめたというわけです。

感情や思考、そして身体は常に変化をさせながらあり続けます。
これらは固定化されたものじゃなくて、ある種の流れとして起こっているわけですからねー。
そして、この流れは気づきとともに気づかれます。

この気づきと起こっていること。
これらは一つのモノなんです。

僕らはずっと気づいていたからこそ、心や身体や思考を感じてきました。
気づきはずっと身近に常に一緒に居たんですね。
そして、あるのは、この気づきだけだったんです。

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