おっはようございます。
タクさんです。
皆さん。お経ってなんで葬式なんかで唱えられてるんでしょうねぇ?
あと、仏壇の前や仏さんの像の前でも唱えられてますよね?
なんでそんなところで唱えてるんだろう?
ちょっと謎ですよね。
お経って、あまり詳しくないですが、お釈迦さんの言葉が書いてあるんですよね。
つまりは、真理のことについて書いてあると思うんです。
それを死者を弔う場面や、仏さんの像の前で唱えるってどういうことなんでしょう?
いやね。
僕も、お坊さんじゃないので、もちろんその理由を知ってるわけじゃないんですが、
もしかしたら、こういうことかな?
っていう仮説を思いついたので、今日はそんな単なる仮説について書いてみたいと思います。
それ仮説はね。
このお経は死者のためや仏像に向けて唱えてるんじゃなくて、
唱えてる本人のために唱えてるんじゃないのかなーって思うんです。
なんでか?
って言いますと、
真理の話ってね。
聞いてると、なんかリラックスできるじゃないですか。
安心できるっていうか。
あー、大丈夫なんだー!ってね。
思えたりしますよね。
だって、この話は、
基本的には、
「あんた、大丈夫やで!」
っていうところに落ち着く話ですからねー。
でね。
僕の仮説は、
大事な人が死んだ時ってやっぱり悲しいし、取り乱したりするじゃないですか。
そんなときにね。
ちょこっと落ち着きましょう。ということで唱えられてるんじゃないかなー。
なーんてね。
思ったりするんです。
そしてね。
仏壇の仏さんに向かって唱えるのはね。
もしかしたら、お釈迦さんが入滅したときに、
お釈迦さんに向かって唱えたんじゃないかなー。
なんてね。
思ったわけです。
そりゃ、悲しかったと思うんですよ。
その悲しさにね。ついつい僕らは囚われちゃうもんなんです。
そんなときにね。
お釈迦さんが残してくれた優しくも温かい言葉を思い出すことによってね。
ちょっとリラックスしよう。自分を慰めてあげよう。
そんなことで、唱え始めたんじゃないのかなー?
なんてね。
思うわけです。
もちろん仮説なんですけどね。
でね。
お経はね。
その境地をつかもうとすると、その欲が邪魔になり掴めなくなるもんなんじゃないかな?
とも思うんです。
だから、ただ唱えるだけでいいんですよね。
僕らもねー。
非二元だとかの話を聞いてるうちは安心できたりするじゃないですか。
でも、イザそれをつかもうとすると、自分のものにしようとした途端、
あれれ?
あのときは安心できたのに、途端にわからなくなっちゃった!
ってなったりしちゃいがちなんですけどねー。
これらは掴まなくてもいいんだよん♪
っていう許しを受け入れられた時に、
うほほーん♪
そっかー。今まで掴んだものに悩まされてて、それを解決するものをさらにつかもうとしておったのかー!
ってね。
そんな可笑しさに気づいたりするんですよね。
なので、こういう話はつかもうとしなくても良いんですよね。
掴んじゃうと途端にその話は理屈になってしまいます。
そして、その理屈にとらわれちゃうんですよね。
このとらわれが強くなると、不自由になるんです。
その不自由さが苦なんですよねん。
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