Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分探しのジレンマ

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自分という観念は、数式における代数のようなものですよーん。
って最近の記事内で書きました。

代数とは特定の数の代わりに仮に入れられる記号の事ですね。

自分という観念も何か特定の世界観を掴み取るために仮で入れられた観念なわけです。

ただ、数式と決定的に違うのは、
数式だと数字は解明することができますが、

自分については、その答えは解明できないという点なんです。

例えば数式の場合は

x+6=13

だったとしますよね。

まあ、本来はもっとややこしい数式になってるんでしょうけど、
この場合、xに数字を代入してみることで、あってるか違うのか?を確かめることができます。

たとえば、xは5かな?と代入してみて、あ、それだと答えは11になるから違うなぁ。。。

みたいにね。
そして、代入を繰り返すといつかは答えにたどり着くことができるわけです。

でもこれが「自分」という観念の場合にはなかなかそうはいきません。
あってると思われても、どうしてもまだ何かが足りない。。。
といったジレンマが生じるんですよね。

あってるとは言えるけど、でもそれが完全な答えとは言えない。。。
みたいな感じになるんですよね。

例えば、
自分に対して、「男」である。もしくは「女」である。
といった答えを当て込んでみたとしても、

うん。たしかにそうだと言えそうだけど、それだけが自分の全てではないなぁ。。。
と感じるわけでしてね。

なので、より正確にするために、
もっと詳しく入れ込んでいくわけです。

 

私は、こんな肩書きである。
私は、○○出身である。
私は、こういった記憶がある。
私は、こんな仕事をしている。
私は、こんな家族がいる。
私は、こんな性格で、、、
私は、こういうことが好きで、、、。

でも、何を入れ込んでも、何を足していっても、
決定的に自分はコレだ!
にたどり着かないんですよね。

もしくは、たどり着いたと思っていても、ふと全然違う自分のパターンを発見した時に、
「うおっ!違った!!!おもてたのと違った!!」
って、なったりもするわけです。

新しい自分発見はなかなか面白かったりするので、それを発見することに躍起になる場合もあったりします。
大概は、環境を変えることで新しい自分を発見できたりします。

この自分発見を繰り返すっていうのは、
これはこれで、全然いいんですけどね。
それどころか、今までこうだと思ってた自分が必ずしもそうじゃないということを発見できる機会にもなります。
また、いろんな自分を発見することは選択肢を増やすことにもなります。
そしてそれは、生きづらさを解消してくれることもあるんですよね。

選択肢があればあるほど、問題への対応の仕方は柔軟になっていきますし、

いろんな価値観、矛盾する価値観の自分を発見すればするほど、
「どうでもええがな力」が培われていきます。

どこかで、「自分はこうだ!」といった一方的な見方がある場合、
それに囚われちゃうと、そこに不自由感を感じたりしちゃいますが、

選択肢が多いほど、「自分はこうだ!」という思いが薄まっていくんですね。

だとすれば、「自分はこうだ!」思いっきり薄めてしまって、
まあ、どうでもええがな。。ってなってくるとめっけもんかもしれません。

結局、自分を探そうと、自分を特定するあらゆるものを付け加えれば付け加えるほど、つかみどころがなくなってきます。
なので、自分探しは終わらないんですが、
オイ!もしかしたら自分なんて最初っからどこにもおらんのじゃないか!
ってなことに気づいちゃいますと、

起こってる好きなことも、嫌いなことも、単に起こってるんだー。
そしてあったのはそれを見てる、気づいている気づきだけであって、
その気づきは、どんなものに侵されることなくずっとあったやーん。
ってなことも見てとれるんですよね。

この気づきはずっとあったし、無色透明なんです。
どんな色をつけて見ることもできると同時に、無色なんですよねん。

するともう自分という存在を特定すること、
自分を色付けすることの意味を失います。
そして、自分の特定から解放されるわけです。
それが探求の終わりなんですよねん。

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