Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

スクリーンは平凡で退屈ですので、面白いストーリーを展開するわけです。

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ふぇーい。
おはようございやす!タクさんです。

えーっと。
ほら、

こういう話ってよく映画に例えられたりするや無いですか。
きょうは、この映画の例えについて書いてみよっかな〜と思います。

 


映画のたとえってね。
どういうもんかというと、

悟りとか「それ」?っていうのは、映画のスクリーンのようなもんやっていう話です。

スクリーンは変わらず在るんですけど、そこに映し出されている映像は色々と変わっとるわけですよね。

そして、この映像のストーリーに強くのめり込むほど、感情移入は強くなりますし、
そうでもなければ、
ただ、映像が流れておる。
ということになるわけです。

でもって、この映像はスクリーンである「それ」とは離れたことはなく、映像内で「それ」を探し求めたとしても、「それ」であるスクリーンは足元にあるわけでして、
スクリーンはそのまま映像ですし、映像はそのままスクリーンだというわけですね。

その映像にどんな観念を加えようが、スクリーン自体が何か変わるわけでもないですし、
この映像の中の一部を自分だとみなそうが、スクリーンは何かの影響を受けるわけでもなく、
どんな意味付けを映像につけようが、映像は映像として変化を続けますし、
どんな映像があろうが、スクリーンがその映像によって破けたりするわけでもないわけでしてね。

映像の部分を「色(しき)」。
そして、スクリーンの部分を「空(くう)」

といったような解釈もあったりするのかもしれませんが、
結局、色も空も同じもんでしてこれらを切り離すことってできないんですよね〜。

なので、「それ」とか「空」とかは、真っ白なスクリーンのことを指し、
映像だけを「色」とか「マインド」とか「自我」である。

といった理解もナンセンスだったりするんですよね。
だって、映像とスクリーンは離れませんのでね。

というわけで、この映画の例えはホントよくできた例えではあるんですけど、ここでよくある誤解があるんです。

実はね。

「この映画館には、観客は一人も居ないんです。」

ここでよく起こる誤解というのは、
この映画を見てる「自分」がいるという誤解なんです。

そうか!これは映像だったんだ!
わかったぞ!
っていう自分です。

この自分も映像の一部であって、在るのは
「スクリーン=映像」のみ
なんですよね。

こうなるともう理解することは不可能なんですよねー。
なので、わかろうとすることの先に理解がないんです。

あるのは「スクリーン=映像」のみっていうことはどういうことかというと、
あなたの眼の前で起こっていることのすべてのことです。

あるのはその全てのみなんです。

それがどうにも物足りないとしたとき、ここに足りないが生じ、
足りないを埋めるためのイメージが展開するわけです。

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