Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」はあまりにも脆く不安定に感じるんですよねん。

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僕らはオギャーと生まれる前、お母ちゃんの胎内にいました。
言葉の制約もなく、何不自由ないところで、安心の中でスヤスヤと眠ってたんです。

それがね。
理不尽なことに、
オギャーと生まれた途端。死にかけるんですよね。

いきなり窒息させられそうになるんです。
だから、赤ちゃんは窒息しないようにオギャーって泣くんです。

赤ちゃんってねー。
水の中で産むと、平気で水の中を泳ぐんですよね。
空気なんてなくてもへっちゃらーって感じで。
でも、空気に触れた途端、窒息しそうになるんです。
そしてオギャーって泣くんです。

もしかしたら、ここで初めて、赤ちゃんは死のトラウマを植えつけられるのかもしれませんねー。

 

でね。
僕らは成長していっても、どこか心の奥底では胎内での安心を覚えてるんです。
そして、その後の一生はその安心感にどこか飢えていたりするんですよね。

この飢えが、安心を求め、
より高い収入。
より健康な肉体。
より安全な地位。
そしてあるいは、より濃密な真我の体験。
そういったものを求め続けることになったりするわけです。

常に今より確実だと思える安心を求め続けるんですねー。

そして、その確実さは、概念で補完されてなきゃならなくなるんです。
つまりは納得のいく説明、理解がないとその安心を受け入れられなくなっちゃってるんです。

なので、意味を求め続けることになるんです。
より安心だと思えるような根拠を探し、そしてそれを手に入れようとするんです。

そして、皮肉なことに、当初求めていた、胎内にいた時のような安心は、とても脆く頼りないもののように思えてしまい、そこに戻るのには恐怖を感じるんです。

つまり、
赤ん坊の頃の安心感を求めながらも、赤ん坊のような無防備さには非常な脆さや弱さを感じるので、そんな不安定な安心は受け入れられなーい!ってなるんですよね。

だから、単なるそのまんま。「イマココ」に留まるのは、とっても不安定に感じたりするんです。
無防備にイマココに留まることには恐怖を感じるんですよね。

ほんとは自動運転で動いている自動車なのに、そのハンドルから手を話すのが怖いんですねー。
だから、一瞬手を話すことができて、自動運転なんだ!と気付いても、またハンドルに手を戻してしまうんです。
どうしてもハンドルを握ってないとどうにも落ち着かないって感じになるんですねー。

でも、実際は、動いている自動車も、そしてその自動車が走っている道も、実は一緒のものだったんです。
映画の映写機から送り出される一筋の光であるのと、よく似た感じで、
これらは一つのエネルギーなんですねん。

でね。
ハンドルを握ってるはずだった、主体であるはずの自分もまた、このエネルギーの一部だったんです。

それが明らかになる度合いが深まるのと比例して、
主体であったはずの自分は「それ」に溶け込まれていくんです。

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