Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理屈や理論では非二元は解き明かせない。

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こういった非二元の話にはねー。
ちゃんとした理論なんて実はないんですよねー。

一応言葉にするから、
いろんな言い方が誕生したりするわけですが、
二元にあらず。という意味の「非二元」って言葉だって、二元があって成り立ちますので、

「あんた、二元じゃないよ!二元なんてないんだよ!!」
ってゆーてる時点でもう、二限の存在を認めてしもてますやん!

ってことになりますからねー。

「私はいません!」
って聞いたりしたとしても、

私がいるから始めて、私がいないって言えるわけでして、
「いませんー!いませーん!」
って連呼したところで、いるからいないって言えるんですやん。
だったら私を認めてしもてますやん!

って話になりますからねぇ。

つまり、
ありとあらゆる理論やお話は、基本的に半分はウソやというわけです。

 

なんで半分なのか?と言いますと、
「それ」とは「全て」なので、言葉で定義された時点で、分離しちゃうんですねー。
言葉とは定義するためのツールです。
そして、定義は分離をしないことには成立しないんです。

つまり言葉で非二元を表現するには、どうしても半分はウソが紛れるというわけです。

なので、この話は話半分に聞くくらいでちょうどいいんですよね。

そして、自分の中でピンとこない場合は、それ以上、
「どういうことなんだろう?」って探らなくてもいいんです。

ありとあらゆる理屈に理論。
こういったものを、一切合切、ほっておく。
すると、ほっておいた「ココ」に全てが残ります。

その残った全ての中には、ほっておいた理屈や理論も含まれているんです。

なんとも変な表現ですが、その全てが「それ」です。

「理屈や理論を掴まなきゃ!」
って思っている間だけ、理屈や理論への探求がその思いに応じて生じているように見えているんです。

その思いが強いほど、より深刻さも強くなります。

なぜなら、思いの強さ、執着の強さが、僕らが見ている現実感の強さと比例するからなんですねー。

この現実感。リアルっぽさ。
それが、深刻さなんです。

理屈や理論の先に答えがあるわけじゃなく、その先にはさらに理論や理屈が必要な問いが出てくるんです。
それが、理屈や理論の仕組みでございまして、
そういった理屈や理論で答えを見つけなくても、すでにここに答えが在るんじゃーん。
っていう発見が、理屈や理論への執着と一緒に深刻さもどこかへ持ってってくれるんですよねー。

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