Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

みーんなアホなら、アホもカシコもいなくなる

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ウチの猫は、何かを訴えにぼくがいる部屋に来たりするんですけど、
その辺に匂いを擦り付けたり
撫でられたりしてるうちによく何しに来たのかを忘れて去っていきます。

後でまた思い出して来たりするわけですが、
また忘れて帰っていったりするわけです。

アホやなーって思ったりもするわけですが、
まあ、アホさに関しては人間もさほど変わりません。

あれこれとわかってるつもりになっていても、
常にわからないことへの不安を抱え、
この先どうなるのか・・・。
と考え込んだりしてますもんねー。

空間を見ながらしたり顔で落ち込んでる様なんかは、
ネコからしたら、何もない空間をみて何を落ち込んでるんだろう??
何にもない中で、自ら作ったイメージ内であーだこーだとやってる人を、
もしかしたらネコは、「アホなのでは???」なーんて思うかもしれませんねー。

 

人はカシコイ。
さらに自分は他の人よりもよりカシコくなきゃならない。
なーんて思ってると、そういったイメージを維持しなきゃならなくなりますからねー。

人間だけはカシコイんとちゃうやろか?
って思ってるから、アホな自分を許せなかったりするんですよねー。

でも、人ってみーんなアホなんです。
アホでデフォルトですし、ワカランが普通なわけですよ。
そして、わかった!と思ってることは大概間違ってるわけです。

わかってる!と思い込んでると、そうじゃない現実が押し寄せて来ますし、
ワシはカシコイ!って思ってると、ほんとはアホなんやでーという自分を見せつけられることになります。

これは、
裸の王様をみながら、
「いや、これは裸ではない!」
と思い込もうと頑張ってるのに似てるのかもしれません。
そうじゃない!そうじゃない!って頑張れば頑張るほど、裸を見せつけられるわけですねー。

カシコくなきゃならない。
そして、人よりもカシコくあらなきゃならない。
って思ってますと、その競争に振り回され続けることになります。

そして、自分のやり方、生き方も肯定されなきゃならなくわけです。
なので、自分のやり方にみんな共感してもらわなきゃならなくなるんですね。

他の人のやり方への批判だって、結局言いたいことは、
「ワシのやり方の方が正しいねんでー!」
ということを言いたいってことですしねー。
その奥には共感してもらわなきゃ!っていう恐怖が見え隠れしてるんです。

実際のところ、正しいも間違いもないところで、
正しいことがあるはずだ!
という思いが生じますと、何が正しくて何が間違いなのか?
という探求が尽きなくなりますもんね。

でも、単に好き嫌いがあるだけで、好き嫌いに正しいも間違いもないよね。
ってことなんですよねー。

それくらいのことなんだと知っちゃうと、
あー。あんた、トマト嫌いなんだねー。ふーん。
くらいで終わるわけなんです。

「私は肉は食べません!だって食べるべきではないからです!」
みたいな感じでね、そこに正しさと間違いを付け加えちゃうと、
だったらなんで野菜は食うんだ!着ている服はどうするんだ!
ライオンのことをどう思うんだ?
とか、妙な正しさ論争が始まったりするわけです。

みーんなアホで、自分もアホで、
そして、アホで良かったのか!
と気づくと、
「カシコとアホ」
「正しいと間違い」
のフィルターを通して見てた世界から、そのフィルターが取り除かれます。

そして、
「カシコとアホ」「正しいと間違い」の呪縛から解放されるわけです。

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