Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」は思ってたのと違うかもしれませんよ

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なんだろ?
目覚めとか「それ」とか。
なんていうか、そういうのを知ったら、
あらゆる苦しみから解放されて、
愛に満ちて、
常に笑みを頬にたくわえて、、。

もう思考にとらわれることもなく、
恐怖もなく、
安心していられる自分になれる。

もしくは、もう自分がないので、
常にそれに在り続ける。

みたいなね。

なんとなーくそういったイメージを持ってる方もおられるかもしれません。

でも、んなーこたぁない。わけです。

よくね。
「私はまだ思考にとらわれちゃったりするんですー。」
みたいなメッセージももらったりするですけどねー。

 

また逆に、
もう現実世界への興味を失ってしまうんじゃなかろうか?
向上心とかそういったものが欠如してしまうんじゃないだろうか?
反省とかしない無責任な人間になるんじゃないだろうか?

みたいなね。

そういったイメージもあるかもしれませんねー。

まあ、こういった誤解もある種、仕方がないのかなーって思いますが、
それは多分、言葉で表現できないものを無理くり言葉にしてあったりしますので、
その言葉を額面通りに受け止めちゃうと、そりゃー誤解も起こりますわ。
ってことですのでねー。

まあ、それってほら、
地図の中に実際に道があるわけじゃないってことでして、
単に「それ」を指し示してるってだけですのでねー。
あまり、言葉の解釈にとらわれなくてもいいと思うんですよね。

単に言われていることは、「そのまんま」ってことですからね。

思考にとらわれてるように感じるなら、そういうことが単に起こってるだけですし、
今は安心していられてるわぁーって感じるならそれもまた、単に起こってるだけです。
実際は起こっていることは無色透明ですので、とらわれもなければ、安心もないわけなんですがね。

単にそういうことにしているということが起こっているだけなんですね。

この、「そういうことにしている」という部分が幻想と言われてたりもするわけですが、じゃあ、幻想に対する真実が何処かにあるのか?と言いますと、そういったものがあるわけでもなく、この幻想はそのまんま真実でもあるんです。

どのようにも捉えられる自由があり、それでいて、捉える主体者がいるわけでもないんです。

自分がなくなるから、常に「それ」でいられるようになるんじゃなくて、
もうすでに、誰しもが常に「それ」なんですね。

それに気づいている主体者もまたいないので、その主体者を作ろうとするのは、これまた一つの幻想を作ろうとしていることになったりもするわけです。

あらま。
だったら、どこに行くこともないんじゃーん。
ってことになりますので、もうすでに「ココ」なんです。

そして、常に変化を繰り返していますが、その変化に意味付けしている間だけ「時間」という概念を採用しているだけで、実際は時間というものが存在しているわけでもありません。
時間があるから何かが変化をしているわけじゃないんですね。

変化は時間の干渉を受けていないんです。

つまり、常に「イマ」なんです。

ま、イマ以外の何かがあるわけじゃなく、ココ以外のどこががあるわけでもないので、イマでもココでもないとも言えるんですけどねー。

そういうわけですので、
あなたの目の前の世界が退屈だろうが素晴しかろうが、
もうすでにあなたは「それ」そのものですし、
今、目の前に広がる世界が探していた「それ」なんです。

これはちょっと違うわぁーって排除して別のところを探したりしてたんですね。
でも、別のところは無かったんです。
そのことに気づくことが、「気づき」だったんですねー。

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