Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理屈からの解放!

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赤信号は渡っちゃダメ。
もうこれは決まり切ってることでしょうがー!

こういった決まり切ったことがあるということは、
「何にもない」はもうここで論理が破綻してるでしょうがー!

「何にもない」からといって、やっぱり今日の生活があるわけですから、
やらなきゃならないことは、やらなきゃいけないでしょうがー!!

はい。
おはようございます。
タクさんです。

ま、冒頭のようなこと、
普通に思いますよね。

あーだこーだと理想論を言われたところで、
それが何だっていうんだろう?
聞いてる間は、ちょっと楽な気分に浸れるかもしれないけど、
結局、日常に戻ったら今まで通りの日常が襲ってきますし。。。
ってねー。

 

まあ、赤信号は渡っちゃダメ。
っていうのは、決まり切ってることというよりは、
単なるルールなんですよね。

ワシらでこういうルールにしとこうぜ!
そうしておいたら、win win でしょ。

みたいなね。

なので、決まり切ってること。というわけじゃありません。
ま、信号で言えば、日本の信号の青は、あれ、ミドリですからねぇ。
青とグリーンの間のグリーンよりの色ですし。。。

ま、それはいいとして、
じゃあ、この青とか赤っていうのは、
誰が見ても赤は赤だから決まり切ってるでしょうがー!っていう風に見えますが、
これも違って、
単なる光の周波数を、人が見ればこう見える。
というだけでして、それを赤と呼んでいるだけであって、
もしかしたら、別のグループではこの赤のことを「天使」と呼ぶ人もいるかもしれませんし、「悪魔」と呼ぶグループもあるかもしれません。
「彗星」と呼ぶ人もいることでしょう。赤い彗星・・・・・。

これもまた、ルールであって、決まり切ったことではなく、
僕らの間では、そういうことにしときましょ。
としていることなんです。

もしかしたら、屁理屈を言っているように聞こえるかもしれませんね。

でも、これは屁理屈を言っているのではなくて、別にこの理屈を信じろ!といってるのでもなければ、理屈と理屈を競わせてるのではなく、
理屈って単なるルールですやん。
と言っているんですね。

僕らは無意識に、何かの理屈にしがみつかなきゃいけない。と思ってたりします。
だから、なにが正しいんだ?
どの理屈が合っているんだ?
と探求しちゃったりするわけです。

非二元の話の中にも理屈を求めちゃうと、
理屈としては分からなくもないけど、やっぱり日常には合わないじゃないかー!
この非二元の理屈を日常でも役立てるにはどうすればいいんだー!
と思っちゃったりするわけです。

でも、理屈は単なるルールですので、なにかしらの理屈を選んで、それを信奉しなきゃいけないなーんてことは無いんだよん♪
っていうお話ですのでねー。
そもそもこの話は、何かに役立つ理屈ではないんですね。

どちらかといえば、何が何でも役に立たなきゃダメ!といった強迫観念からの解放って感じですのでねー。

ただ、漠然とした収縮した感覚は、何かの理屈を掴まなきゃいけないという強い思い込みから来てたりしますので、
なーんだ。理屈って単なるルールなんだー!って気づいちゃうと、深刻さといった窮屈さからは解放されていくんです。そうなるとそれはそれで楽なんですけどね。

またこれは、深刻にならなくなるというよりは、深刻も起こるけどそれも遊んじゃえ!って感じなんです。

そして、
なーんだ。単なるルールなんだーって知りますと、
ルールは選んでもいいんだ!ってことも知れます。

もちろん、弾丸スピードで車を飛ばしてもいい!ってことじゃないですけどね。

例えば、サッカーが苦手なら、別にサッカーじゃなくて、野球とかをやっても良いじゃん♪ってことです。

言い換えると、
どこかの企業に就職して、ちゃんと勤めて、何歳でこれくらいの役職になって、何歳で結婚して家を建てて、、、。
みたいなね。
そんな暗黙のルールがあったとしても、それに沿わない自分に罪悪感を持つ必要はなくて、なんか違うわーって思ったら、もっと面白そうな方に乗り換えたらいいってことなんです。

お金儲けが得意なら、それを楽しめばいいですし、
人に何かを教えるのが得意ならそれを楽しめばいいんです。

いわゆるスピリチュアル的な生き方が正しいわけでもなきゃ、
禁欲とは程遠い生活がダメだというわけでもありません。

ただ、スピリチュアル的な何かでも欲でも、それに深く取り込まれれば取り込まれるほど、
窮屈さを感じちゃうよーってことですのでねー。

労働が苦手なら、自分のオモロイを表現する方に切り替えたらいいですし、
ダラダラするのが好き!なら、思いっきりダラダラを極めればいいんです。

サッカーと野球にどちらが価値があるということはなく、
単なる好き嫌いでしかないのと同様に、

ダラダラするのと、人のために汗水垂らして労働することの間にも
価値の差はないんですよねー。

石ころとダイヤモンドも、ダイヤの方が価値があることにしようぜー!というルールがある人たちの間だけで価値の差があると仮定されているだけなんです。

猫に小判。豚に真珠。馬の耳に念仏。
これらのことわざは、一見、人が価値の分からない者を見下してるような感じがありますが、

猫からしたら、なにを小判で小躍りしたり深刻になったりしてるの?ウケるんだけど??

って話ですからねー。

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