Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づきと溶け合う

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非二元の話ってね。
何かを解き明かすという話じゃないんですよねん。
もうすでに解かれてるんです。
解かれてるそれに身をまかせるとそこに溶け込むんですねー。

でね。
非二元の話は、何かを救うとか、それを知ると救われるという話でもないんです。

そう言ったことを知ると救われる、目覚めるから救われるっていう感じとはちょっと違うんですよねー。

自分を、または世界を救うために何かを解き明かし、
そして、それを知る者になると世界を救うものになる。
みたいなことでもないんですよねー。

だから、わかろうとしなくても良いし、何者かになろうとしなくても良いっちゅうことなんです。

じゃあ、どないせいっていうねん!
って思ったりするかもしれませんが、

まず、自分を救えば良いんです。

 

世界を救う前に自分を救うんです。
何かを得ようとする前にまず、自分を救うんです。

自分を救うってどうすれば??
って思われるかもしれませんが、
それは、すでに救われているということを知るっちゅうことなんです。

救われてないということは何かしらの壁があると思うんです。

でも、その壁って実際にはないんですよね。
あるとしているだけで。

そこを見抜くってことになるんですが、
見抜こうとしちゃうと、これまた、何かを解き明かす!
みたいな方向に行っちゃいますのでねー。

そうじゃなくて、壁としている思い。そのなかにある「許せーん!」っていう思いに気づいてあげるんですね。

で、その許せん!に寄り添ってあげるんです。

許せん!を許すに変えなきゃいけないということじゃなくてね。
単に寄り添ってあげたら良いんです。

許せんを認めてあげる感じです。

そうしますと、
まだまだ自分はいろんな許せんを作っちゃうけど、
でも、そうやって作った思いが壁となり、その壁が救われてないという観念を作っちゃうんだねー。
ってね。
その辺の仕組みが見えてくるんです。

そこで、そうやって無い壁を作っている間だけ、「救われてない(という観念)」があるだけで、ホントはもうすでに救われてるんだねーって、見抜かれるんですよね。

で、見抜かれると、救うための理屈っていらないんだーってことも見えちゃうんです。

そうやって、自分が救われてることを知る時に、分離のなさも知ったりするわけなんです。

その分離のなさ。
それが非二元の話だったんですねー。

何かを救うための話じゃなくて、
すでに救われてた!
と知った時に、「それ」も知るわけです。

それは誰かが何かを知るということじゃなく、
単に分離のなさに溶け込む。
すでに溶け込んでいたことを再認識するって感じなんですけどね。

なので、非二元によって救われるんじゃなくて、
まず、自分を救ってあげる。
許せん!に寄り添ってあげる。
許せんがあってもいいやん!ってそんな自分を認めてあげる。

あらゆる思考もそのまんまにしておいてあげる。
そのまんまにおいて置いておいてあげるんです。

すると、あ、分離なんてあらへんやん!
っていう気づきと溶け合うんですねー。

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