Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何にもなくて全てがある??どーゆーことやねん!煙に巻こうとしているのか??

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おはようございます。
またまた腰痛が痛いタクさんです。
頭痛がイタイみたいな言い方をしております。
皆さまの腰の具合はいかがでしょうか?

さて、
「何も無いと全てある。」
これがよくわからん!っていうメッセージをいただきました。

たしかに改めてこの言葉を読んで見ると、
「はぁ???何言ってんの?」
もしかして、ケムに巻こうとしているのか??
なーんて、思う気持ちもよーくわかります。

というわけで、今日はこの辺を掘り下げてみたいと思います。

 

ホントはなーんにもなくて、そして全てがあります。

全くよくわからん言葉に聞こえますが、
これは、ホントこの言葉の通りなんですよね。

無いと有るが同時に成り立つって、
一見、変にみえますよね。

でも、全てがあるから、色んなものを捉えることができるわけです。
同時になにもないから、どんな捉え方だってできるわけなんですねー。

ありとあらゆる幻想を起こせるのも、世界を作り出せるのも、
そして、目の前に世界が展開しているように見えるのも、
何にもなくて全てがある「それ」が在るからです。
ま、その行為者がいるように見えるのも勘違いだったりするんですけどねー。

この世界には、ありとあらゆる世界が同時に起こっていて、同時に何も起こっていません。

そんな中で、ヒトは共同の幻想をこの世界に見ることもあれば、
固有の世界も同時に見ているというわけです。

ただ、その世界を見ている主体は存在していないんですねん♪

この主体が、あるとみなされている間だけ、この世界と主体との間の分離感が生じています。

世界を成り立たせるには、主体が必要になりますからねー。
そして、主体を作り上げるには、客体も同時に必要になりますので、客体も作り上げられます。

そして、主体と客体というフィルターを通して確立された世界を見るため、
見られた世界は、分離された世界として見られるわけです。

分離するには、さっきも書いた通り、主体と客体という区別が必要ですので、
全てに何かしらの定義づけがされるわけです。
定義づけがなきゃ、どれが主体でどれが客体なのか?が決められませんからね。

この定義づけに基づいた世界を僕らは見ているわけでして、
この定義づけは世界の大前提としてデーンとこの世界の土台として鎮座しておるわけです。

この定義づけを仮想の個人が共有している場合に、僕らは同じ世界観を通して世界を見ることになります。

でね。僕らはこの定義の中に真実を探そうとしちゃったりするわけですが、ここには真実はありません。
なので、より真実に近いという定義もなければ、間違った定義もないんです。

僕らが普段、有るとみなしているものは、じつは単なる定義づけのことだったりするんです。

何かが有る?となると、それを定義づけしてそれを何かとして見なそうとするわけですね。

つまり、有るとみなされるためには、何かしらの定義づけがセットになってくっついてくるというわけですねー。

で、ここで話を戻すとしますと、
なーんにもない。というのは、この定義づけだけがないということになります。
でも、定義づけ以外の全てはすでにあるわけです。
ただし、定義づけされていないので、分離されていません。

なので、全てがあるんです。

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