Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

真実は未熟

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おっはようございます。
昔、テトリスをやりすぎたせいか、
街のビル群を見てると、
この隙間にはこの形のブロックを落とせばいい感じに消せるなぁ、、、

と妄想してしまうタクさんです。

皆さんいかがお過ごしでしょうか?

テトリスのあの真っ平らになってスカッとブロックが消える瞬間に、
人は何かしらの快感を感じるんでしょうねぇ。

そういえばネコは自分の毛がいっぱい落ちてる部屋の片隅が落ち着くっぽいですね。

掃除をしてやると若干不満そうにしたりします。

人には人の、ネコにはネコの快感があるんでしょうねー。

 

僕らはどうしても完全性、完璧さを求めちゃったりしますよね。
でも、その完全さ完璧さって、単に人が思ってるだけのものであって、

本当の完璧さじゃないかもしれないんですよねー。

なので、もし、真理というものが、
完全に納得がいって、合点がいって、
非の打ち所がないような論理性があるもので、

なーんてね。

そんなふうに思ってたとしたら、いつまでたってもその真理は見つからなかったりするかもしれません。

でもあんた!全ては完璧だって言ってたじゃないかぁぁぁ。

えらい聖者さんだって、全ては完璧なんだ!って言ってるじゃないですかぁぁぁ!!

ってねー。
思われるかもしれませんが、もしかしたら、想像している完璧さは思ってたような完璧さじゃないかもしれないんです。
実は完璧さは、許しと愛によって成り立つんですねー。

許しと愛???
それが、どうなって完璧さにつながるのん??

ってなりますよねぇ。

それは、全てはすでに完全に許されているからなんです。

許されている。この許しが愛なんですね。

で、何が許されてるのか?
と言いますと、それが未熟さなんです。

全ては未熟なんです。

そして、その未熟さこそが、もうすでに完璧であり完全なんです。
何を足さなくても引かなくても良いんです。

そんな許された未熟の中で、未熟を許せないという思いが起こっているだけなんです。

僕らってね。

分離のない中で、自分という分離を作ったりするわけですが、

同時に、自分と思考や自分と感情なんかは逆に一緒にしちゃったりするんですよねー。

未熟さはすでに完璧なんですが、
そんな中で未熟さを克服しようという思いもまた単に起こってるわけです。
そこに自分という観念をくっつけると、それが、自分の欲となるわけですねー。

いないのは、自分だけです。欲となる思いだって単に起こってるだけなんです。

ああ、また欲が起こっちゃったって思ったとしても、そんな未熟さがすでに完璧ですし、未熟さがない者なんていてないですし、そして、その未熟さは自分という観念とは関係ないものでもあるんですよねー。

でね。そんな未熟さが許された時、その未熟さは完全さとして姿を現してくれるんです。

それが、

「うっほほーい!そのまんまでええんやーん♪アホでええんやーん♪」っていう許しと気づきなんです。

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