むかーしですが、「3時のあなた」っていうテレビ番組があったんですけどね。
僕はそのころは小さい子供でしたが、
なんか、この「3時のあなた」っていう響き。ここで使われる「あなた」の響き。
これがなんか、子供心に艶めかしく感じたりしたもんです。
なんやそれ?
って話なんですけど、
なんかわからんのですが、昭和の大人ってなんか艶かしいんですよね。
あの時代は艶かしさが流行ってたのかなぁ?
ま、よくわからん始まりですいません。
おはようございます。
タクさんです。
さてさて、
というわけで、今日はあなたについて書いてみたいと思います。
いきなりですが、
あなたは、確かめる以前にもうあなたですよねぇ。
顔や身体を確かめる以前に、
すでに「あなた」なはずなんです。
ちなみに、顔って決して自分で見ることはできませんよね。
なので、鏡を見て確かめることになるんですが、
鏡に映った顔は、平面ですし、しかも左右逆になってますし、
実際とは異なるんですよね。
だけどいつしか、自分の顔は鏡に映った顔なんだ。
と錯覚していくわけです。
そういえば、声って自分の声だと思っているのと、録音した声は全然違いますよね。
僕は自分の録音した声を聞くと、もう悶えるような気分になってしまいます。
くはぁぁぁぁー!!!!
こんな声してるくせにいっちょまえに普段喋ったりしておるのかー。
ひょえぇぇええええ。。。ハズカシィぃぃぃ。。。。
って感じです。
ま、自分の声だと思っていたものも、体内の反響音と外に向かって聞こえる声は全然違うっちゅうわけですね。
そういえば、携帯電話なんかから聞こえる声って、実は手元にある携帯電話が作った声だって知ってました??
声を電気信号に変えて、その電気信号を受けた携帯電話がこんな感じやろ!ってなことで音を作ってるんですよねー。
あ、ちょっと話がズレちゃいました。。。
というわけで話を戻しますが、
あなたは鏡を見る前から、自分という存在は知っているんです。
そして、その知ってる自分に対して、付け足すものも確認するものも必要ないんですよね。
だって、すでに知ってますからねぇ。
でも、それを確かめようとした瞬間、鏡に映った姿や他の誰かと比べて太ってるとか痩せてるとか、、、そういった判断を加えて、その判断をも自分としちゃうんですよねー。
そして、すでに知っていた自分と混ぜこぜにしちゃうんです。
そやって、新たな自分というものを作り出すんですよね。
「私はいない」という言葉で起こりうる誤解の一つとして、
本来知っていた自分すらもいない?
この存在もいないの??
という風にとってしまうということもあるかもしれません。
でも、それがいないということはあり得ませんので大丈夫です。
その元々の自分という存在と、付け足された判断が混ぜこぜになってるんだよん♪
ということに対する気づきっていうことですのでねー。
ただ、自分という言葉、自分という観念は、確かめようとした時点で作られた観念ですので、
元々ある自分は、自分と呼ぶ以前のモノであります。
何かと区別したり、分離して整頓されたものじゃないので、呼びようがないので、「それ」って便宜上、呼んでわけなんです。
この「それ」は鏡の中の自分より以前にある、身体や心という自分。
さらに、その身体や心を自分とする以前にある自分。
また、「自分」という観念をつくる以前にある「それ」なんです。
「以前」と書いてますが、ほんとはこれらは同時に在ります。
なので、あなたは「それ」から離れたこともなく、「それ」じゃなくなったこともないんです。
その「それ」は完璧な一体感であり、同時に全部です。
その全部の中で分類した一部分だけを意識している間だけ、その一部分とその他をイメージないで分けているだけなんです。
この分けるという行為もまた、全てである「それ」の表現形態のひとつなんです。
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