人から褒められたら嬉しい。
人から文句を言われたら悲しい。
これって、普通の感覚だと思うんです。
でもねー。
やっぱり自分の幸せに関しては自分で決めなきゃね♪
って思うんです。
人に褒められる。認められる。みたいなものを
幸せの尺度にしちゃうと、幸せを人に支配されちゃいますからねー。
そんなん理不尽ですもんねぇ。
お金に幸せを求めると、お金に支配されちゃいます。
地位に幸せを求めると、地位に支配されちゃうんです。
そしてそれは、幸せを閉じ込めるということにもなるんです。
もし、自分の幸せを他の何かに明け渡しちゃったら、
その他の何かっていう器に、広大な自身の幸せを閉じ込めちゃうことになっちゃいますからねー。
自由に羽ばたける幸せの青い鳥を狭い鳥かごに押し込めるようなもんです。
んなことしちゃいますと、鳥も羽ばたく力を失い、羽ばたくことも忘れちゃいますもんねぇ。
社会のため、誰かのために何かをすることで幸せを感じるのはとっても素晴らしいことなんですが、それは自分が嬉しいから、ワシが楽しいからやるんや!
って言うことですからねー。
この視点を忘れちゃうと、自分を見失う。すなわち、幸せを見失ってしまうわけです。
こういう地位を得られたなら幸せになれる。
こういう状況になれば幸せになれる。
人から尊敬されれば幸せになれる。
そう言った条件という枠に幸せをはめ込んじゃいますと、
途端に幸せは、今この手元からスルスルーってこぼれ落ちちゃうんです。
幸せを条件にはめ込んじゃったりした時に、
その条件が自分で決められないことだったりすると、
もうその条件の顔色を伺い続けなきゃならなくなりますのでねぇ。
出世が幸せ!なんていう条件があったのだとしたら、
出世の条件という枠にとらわれちゃいますし、
人気に幸せを求めたら、人の顔色を伺い続けなきゃならなくなります。
手元にあるはずの幸せが、なぜか、いつのまにか、
条件の方に持っていかれちゃうというわけです。
スルスルーってね。
そして、うまくいったなら、その条件を維持しなきゃいけなくなりますし、
うまくいかなかったなら、
自分はこんなもんなんだよね。。。
って妙な自己憐憫に浸りながらもそれを納得させつつ、手元にあった幸せに目も向けなくなってしまう。
なんてことになっちゃったりねー。
幸せって別にどこかにあるわけじゃないんですよね。
ずっと手元にあるんです。
だけど、どうして、どこかに幸せを探し求めてしまうだろう?
といいますとね、
それは、幸せとは逆の、不幸という条件を握りしめてるからなんです。
僕らが探すべきは、幸せではなく、
いつしか握りしめてしまっている不幸の条件の方なんですねん。
一見、確固とした理由で塗り固められてるこの不幸の条件。
こいつと対峙して、この塗り固められた理由のウソを暴いていくこと。
そのメッキを剥がしていくこと。
その奥にある
「んなことしたら死んでしまうで!!!」
っていう思いを許してあげること。
死んでもええんやで。だって何が死ぬというんや?
その思い以前にイノチはあるんやでー。
って発見してあげることなんです。
そやって、握りしめてた手を開いてあげると、
元々手の中にあった幸せが姿を現してくれるんです。
その発見は、
「ええええ!」
「わしが握りしめてたから見えなくなってただけってことー!!!」
というなんともアホみたいな理由に笑う瞬間でもあるんです。
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