おっはようございます。
タクさんです。
よくね。
こういう非二元の話なんかでね。
「何にもないんです。」
「意味はないんです。」
とかいう話を聞いちゃうと、
なんだか、
「人生で感じる全てのことに対して、何も感じなくなるんじゃなかろうか?」
「不感症のようになるんじゃないの?」
「それって生きてて楽しいの?」
なーんて思っちゃったりする方もおられると思うんです。
でもこれ、確かにそう聞こえる部分もあるのかもしれませんが、
そういうことじゃないんですよねー。
人生で感じる、悲しみや嬉しさ、
そういうのが感じにくくなったりするってことはありませんし、
それどころかより強く、より深く感じるようになったりするかもしれません。
一瞥とか、そういった体験をした人なんかにも、
そういった悲しみとかの感覚がより鋭敏に感じるようになっちゃったりするパターンも聞いたりします。
なので、変に一瞥とかの体験を掴み取っちゃったりすると、
今まで感じていた苦をより鋭敏により濃く受け取っちゃったりすることもあるので、もしかしたらこの辺は要注意かもしれませんねー。
全ては幻想と知ったはずなのに、なぜかより全てが濃く感じちゃってシンドイ。。。
なんてなったりするわけです。
これも、幻想と知ったという観念を、自身の中に持ち込んじゃう。
っていう矛盾が起きてるからだったりするんですけどね。
まだ、分離の観念が残っていて、体験を分離の観念上に持ち込むことによる矛盾に苦しんじゃう。
みたいな感じでしょうか。
なので、いわゆる「一瞥」みたいな体験をしちゃった!と感じたなら、
とっとと捨て去っちゃった方が良いんですよねー。
ホントはそれ、体験じゃないですからねー。
そして、ある時、
「あ、体験じゃなかったんだ!」
って気づくんです。
その時に、あらゆる体験というものから目覚めるって感じなんですよねん。
「何もありません。意味もありません。」
という言葉だって、それを分離と言う大前提のまな板の上に乗っけちゃうと、
ある意味、とても薄情に見えたり、無関心に見えたりするんです。
「一瞥」だって、それを体験として掴み取った途端、
分離という観念のまな板の上に乗っけられることになります。
すると、空虚にかんじたり、虚無感を感じたりもするんです。
でも、あらゆる起こること。
そしてその奥深くの源泉。「愛」とか呼ばれてるやつ。
それを感じ取っちゃったりしてるもんですから、
あらゆることが、より色濃く感じてしまうこともあるんです。
そんな色濃さも、分離の観念上に乗っけちゃうと、途端に深刻さが増したりするんですよね。
だったら、どう対処すればええのよー!
ってことなんですが、
分離の観念上に乗っけるっていうのは、解釈をしようとしちゃうってことなんです。
解釈してつかみ取ろうとする。
そのクセを見てあげるんです。
「あ!ワシ、また解釈してつかみ取ろうとしてる!」
ってことを気づいてあげるんです。
そんなクセを愛おしく眺めてあげるんです。
ついつい
「この解釈しようとするクセが苦を生み出しとったんかー!」
「コイツめ!コイツめ!」
って思っちゃったりしがちですけどね。
それだとまた解釈の世界に入っちゃいますのでね。
そうじゃなくて、愛おしく眺めてあげるのが良いんです。
そうすると、本当にその愛おしさが姿を表してきてくれますのでね。
あらゆる観念のその奥にある源泉(=愛)が再び姿を見せてくれるんです。
「ああ、この源泉の色の濃さを解釈上のストーリーに持ち込むことによって、
そのストーリーがより強い現実感として感じ取られていたんだねー。」
ってなことが見えてくるかもしれません。
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