Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

単にそのまんまでいるということ。

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一瞥体験とかそういうのってね。
別に特別な何か?が何処かにあるのか?というとそういうことでもなくて、
普段だってみんなこういう体験はしてるんです。単に無意識なだけでね。

なので、
この体験のあるなしってあんまり重要じゃないんですよね。

「えー!私、そんな体験してませんけど?」

って思われるかもしれませんが、
確かに、「私」は体験できないんですよね。
体験してるって言いましたが、
厳密には、実際それって、体験ですらないですからねー。

でもね。
普段、皆さんが、
ずっと「私」を掴み取っているのか?
ずっと「私」でいるのか?
というと、結構そうでもなくてね。

みんな「私」を意識している間だけ「私」を掴み取っていて、
普段は結構「私」はいなかったりもするんです。

そんな「私」のいなくても、やってけてるという発見。

そして、私を私としている間だけ、私の物語が展開してるんだ!
っていう発見。

それが「気づき」なんですよね。

 

世界が「私」と「その他」で分離しているという考えもまた、「私」の中にしかありませんので、そういう分離感もまた、「私」を意識している間だけしかないんです。

ボケーっとしてる時とか、
ウッホー!お腹いっぱい!ってなってる時とか、
山登りであれこれ考える余裕すらなくなった時とか、
ランナーズハイ状態の時とか、
夢中でダンスしてる時とか、
クーッって寝てる時とか、
やっとトイレに到着して、助かったー!ってなってる時とか、
クカーって寝てる時とか、、、。

そんなときは「私」は意識されてないんです。

そして、また、「私」を掴み取った時に、
「おっと忘れてた!そうそう!大変なんですの!大変なんですのーーー!」
って心が騒ぎ始めるんですよねん。

なんでこの話がややこしくなってるのかというと、
「私」が大変を取り除いて、その先に「私」がなくなるといった考えがあって、
頑張って三昧(ざんまい)状態を作ろうとしたり、
また、この「私」のいなさを体験や一つの物語として解釈しようとしたりするからややこしくなってるんです。
また、この体験をしたら全てから解放されるといったストーリーを掴み取っていると、
あれ?まだ「私」は解放されてないんですけど???と不思議に思ったりするわけです。

これってね。
どうにかなるっていうんじゃなくて、
単なる気づきなんですねー。
「あ、そういえば、知ってたわ。」
といった感覚の気づきなんですねー。

なのでもし、そういう体験を望んでいるんだとしたら、
「そっかー。そういう望みが起こってるんやねぇ〜。」
ってまるで他人事のようにその思いを見てあげたら良いんですよね。

で、その思いをそのまんま起こしておいてあげてみるんです。

すると、その思いは放っておかれたら、持続しないっていうことも見てとれると思います。

ほえー。やっぱり掴み取ってる間だけ、思いがストーリーを作り上げとるんやぁー。
っていう様子も見て取れるんです。
そして掴み取ればとるほど、ストーリーは勢いを増すんです。

そういったストーリーや思いを拠り所にしなくても、ちゃんとぜーんぶ機能してるんです。完璧にねー。

そんな中、
「完璧じゃないやないかー!」
ってな思いも、元気に起こってきてくれてるんですよね。

こいつも
「カワイイ奴め!」
っていう風に見てあげたら良いんです。

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