Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては無である。が指し示すもの。

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般若心経なんかでね。
全ては無い!
なんて表現されてるじゃないですか。

あれもないし、これもない~♪

物質も無けりゃ、認識してる器官もないしー。
目で見える世界も無けりゃ、意識してる世界もない~♪

てな具合にね。

ただ、これを「有ると無い。」
という見方で受け取るとちょっと誤解があるかもしれません。

 

ま、般若心経の細かい内容については詳しい方も沢山おられるでしょうし、僕はあまり詳しくないのでちょっとスルーさせていただいて、

たまにね。
「生きるとか死ぬってホントは無いんですよねぇ?」
とか、
「現実って幻想のようなものなんですよねぇ?ホントは無いんですよねぇ?」
といったことを聞かれたりすることがあるんですけどね。

「うん。無いですよー。」って答えてたり、
「有るとか無いがないんですよー。」とか
「なにがあったんやー?」

とか答えたりしてるんです。

無いですよーっていうと、大体ちょっと安心してもらえたりするんですが、
「有るとか無いがないんですよーっ」ていうと大体ポカーン( ゚д゚)ってされることが多いです。

でも、ホントのところ、無いということでも無いんですよねー。

つまり、有る無しっていうのがね、概念なんやで!ってことなんです。

これが分離という幻想を生じさせておるわけです。

有る無しの概念上に、いろんなものを乗っけて遊ぶっていうゲームをやってるようなもんなんですよねー。

だからね。
お金なんかないんだーといって質素に暮らすのも良いですし、
アホか!お金はあるやないか!わしはもっと稼ぐで!っていう生き方もまたそれはそれで素晴らしいわけなんです。

精神世界が正しいんだー!っていうのも素晴らしいですし、
物質世界こそが現実だー!っていう考えもまたそれで素晴らしいんです。

そしてどちらの素晴らしさも、そこに差は無いんですよね。
なぜなら、どちらも無いからです。

ただ、ここで言う「無い」は、そもそも、「有るとか無い」っていう考え方自体がホントは無いっていう事なんです。

壁にガンッって頭をぶつけたなら、壁があると思うと思うんですが、
真相は、ガンっていう事が起こっただけで、それ以上でもそれ以下でもないんですよねー。

壁も無けりゃ、壁の有る無しなんてのもないし、ぶつけた原因っていうのも無いわけです。

これらのことは、起こったことに後付けで付け加えてるストーリーやというわけなんです。

このストーリーはストーリーとして起こってるじゃないか!っていう思いも沸いてくるかもしれませんが、
それにたいしても、有るでも無いでもないでしょー?
っていうことなんですよねー?

もしかしたら、
ものすごく「???」ってなってる方もおられるかもしれませんが、
なぜ「???」ってなってるのかといいますと、
それもやっぱり、
全ては「有る」か「無い」かのどっちかなんだ!
っていう頑なな観念があるからなんですよねー。

空(くう)や色(しき)のどっちかにこだわっちゃうのも、
その土台にはやっぱり、
全ては「有る」か「無い」かのどっちかなんだ!
っていう観念があるからなんです。

これが、単なる観念やったんかーい!ってなりますと、

どっちでもそれはそれで良いよね~♪ってなるわけです。

そしてもちろん、身体としては本能として身体を守る働きがあるわけですから、
それを守ろうとする防衛本能も働くわけですね。

それで良いんです。

ただ、防衛本能が知識によって拡大するときに、その恐怖の範囲も広がっていき、そこで「苦」というものを生じさせるんです。

ホントは「苦」も有るでも無いでもないんですけどね。
それ言っちゃうとややこしいから置いておきますけど。

まあ、そんなわけでね。
楽しく起こってくる表現に乗っかってりゃええやーん。
ってなことを言ってるわけです。

そして、もし、しんどいことがあるのなら、何かを頑なに握っちゃってるのかもよ!
っていう事なんです。

なのでねー。
ここで言われている「無い」は、
「有ると無い」の二択の方の「無い」ではなくて、
「有ると無い」という二択がそもそも「無い」やんねー。

っていうことなんです。

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