窓の外や遠くにある木々がね、風で揺れてることってあるじゃないですか。
あれって子供の頃は、木が自分でウオォー!って動いてるように見えてませんでした?
僕はそう見えてたんですよねー。
なので、今でもたまに、木が揺れてる様を見たら、
おお、今日はやけにノリノリやないか!
なんて思ったりもします。
よく童話かなんかで子供が森に迷い込んだときに、木がウニョウニョ~って動くような描写があったりしますけど、あの描写の感覚が正に子供の頃に感じた感覚と似ているので、同じような感じで見てる子供も多いのかもしれませんねー。
さて、
もしかしたら、風で揺れてる木を怖がる子供と同じような勘違いを、大人の僕らもしているかもしれません。
誰もコントロールしていない風にあおられる木がまるで自身で動いているように見るのも、
誰もコントロールしていない思考や感情。そして、湧き上がるアバターをまるで自身のことのように捉えているのも同じようなものなのかもしれないよっていうね。
僕らの本質って、思考でも感情でも、アバター(キャラクター)でもありません。これらはとどまることなく常に変化しております。
起こっては去っていき、起こっては去っていく。
これは、海の波、空の雲と同じようなものなんです。
では何が本質なの?って問われると、その本質は見ることはできないんですよね。
ま、見る必要すらないって言う方が近いかもしれないんですけどね。
とにかく見えないものなんです。
木に吹き付ける風が見えないのと似てるかもしれません。
風は目には見えないけどありますよね。
だから木々は動いておるわけです。
それと一緒で、「それ」は在るんです。在るから、全てが起こっているというわけです。
フェイスブックなんかで、自分自身のフレームがありますよね。
自分の写真や人によってはキャラクターやペットの写真なんかを入れているあのフレームです。
みんなあのフレームには、なるべくよく写ってる自分の顔写真を入れてる人や、
可愛いペットや、なんかかっこいい雰囲気のあるイメージを入れてる人もいたりして、、、。
みんな思い思いのものを入れてると思うんです。
ちなみに僕の個人フェイスブックでは、ストレートパーマをしたての時に、なるべく上から撮ったシャープに見える写真を入れて偽装したりします(笑)。
ちょっと話がそれましたけど、
本質、「それ」とはこのフレームのようなものなんです。
それがあるから、いろんなキャラクターがそこに入れられるわけですよね。
そこに入っている画像をそれこそ真っ白にしたところで、それは真っ白なものを単にフレームに入れただけってことになりますよねぇ。
その白い画像がフレームにより近いってわけはないですよね。
そして、そこに入ってる画像が、どす黒いまだら模様だとしても、それがフレームそのものだというわけじゃなく、単にフレームにその画像が映ってるだけでして、フレームそのものではありません。
フレーム自体が自分だということなんですが、それはそこに映ってる画像が自分だということじゃないんですよね。
自分をフレームに近づけようと、真っ白になろうとしても、
なんだかまだら模様になってたとしても、フレームの本質ってどっちでもないんです。
でも、フレームがあるからあらゆる画像がそこに配置できるわけであって、フレームとその画像が離れているわけでもないんです。
フレームに乗っかる画像はフレーム自身の光ではあるのですが、その画像が持つ意味をフレームが表現しているわけじゃなく、その画像は単なるドットの集まりでしかないわけで、よりフレームの本質に近い画像や遠い画像があるわけじゃないんですよねー。
なんだか、余計にややこしい例えになっちゃったかもしれませんが、
「それ」があるから全てが起こってるわけで、起こってることはまさに「それ」の表現でもあるわけですが、
でも「それ」は起こってることに対する意味を付与しているわけでもないっていう感じです。
そして、起こっている目の前の全ては、
まさに「それそのもの」なんですよね。
僕らは「それそのもの」を常に目の当たりにしているわけですが、
それを見ながら、そこに付与された意味を見ている気になっているわけです。
どうしても僕らって意味の方に引っ張られちゃうんですよね。そしてその意味に右往左往しちゃうっていうかね。
この意味は生まれたばっかりの赤ん坊の頃から持っていた意味ではなく、
後付けされた意味なんですよね。
その意味の部分がストーリーだとか幻想だとか言われているというわけなんです。
その意味の中に「自分」という観念も含まれてたりするわけですねん。
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