Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は在る。在るがあるだけで、在るが全て。

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自分も他人も自身の中にある。って僕もよく書いてますが、もっと突き詰めちゃうと、自身の中にすらなくて、それがあるだけなんですよね。

うーんよくわからない。。。ってなりますよねぇ。
この辺を今日は掘り下げて見たいと思います。

例えば、あなたの知り合いの鈴木さん。
この鈴木さんの印象は、あなたの中の鈴木さんと、三宅さんの中の鈴木さんでは、
おそらく違うものになると思うんです。
そして、鈴木さん自身のなかにある鈴木さんもまた、
他の方の中にある鈴木さんとは違いますよね。

そんな中、
「鈴木さんってとっても良い人よねー。」
なんて話しながら、鈴木さんの印象を共感したりするわけです。
「でも鈴木さんってば、ちょっとおっちょこちょいなところもあったりするよ。」
なーんて言いながらねー。そんなところも共感させて、新しい鈴木さんを各自持ってかえるわけですね。

そして、みんな、自身の中に、
自分という観念と鈴木さんという観念を分類して整理して保存しておくわけです。

「私はおっちょこちょいではないが、鈴木さんはおっちょこちょいだ!」
ってな感じですね。

そして、鈴木さんとあったときに、記憶の中から鈴木さんと鈴木さんに対する自分という役割を引っ張り出してくるわけですね。

鈴木さんが上司だったなら、部下としての自分を引っ張り出してくるわけです。

そうやって、イメージは現実に投影されて展開されている(ように見えている)わけです。

これは鈴木さんや他の誰かの印象だけじゃななく、
ありとあらゆるものもそうやって整理整頓されているんです。
そして人は、なるべくたくさんの材料を持っておこうと探求し、持っているものをよりグレードアップしようと探求するんです。

 

社会のことや誰かの印象や信じること。
好きなことなど膨大なものを整理していき、
整理されたそれらを持ち寄っては、
共感できる場合は引き合い、
持ち寄ったものの意見が違えば反発しあったり、
反発するほどのものでなければ、落としどころを探ったりするわけなんですよね。

ある種、社会や目の前の世界、人生と呼ばれるものはそうやって構成されていると言えるかもしれません。

この持っているものというのは、主義のようなものです。
主義を持ち寄ってるわけですね。

そして、その主義への思い入れが強ければ強いほど、
共感に対しては嬉しく思い、
その主義に反するものに対しては、反発を強く感じるわけなんです。

ちなみにね。
実は共感も反発も実は同じようなものだったりするんですよね。
主義への思い入れの強さという意味では同じなんです。

そもそも主義って表と裏がないと成り立たないんですよね。
なので、自分の主義への執着が強いほど、その裏っかわも色濃くなるんです。

例えばね。
スピリチュアルが大好きな人とものすごいアンチの人がいるとするじゃないですか。
そのどちらもが、スピリチュアルのことについては、ものすごく詳しかったりするんですよね。
大好きな人が詳しいのは当然として、
大嫌いな人も
あれがダメだこれがダメだと言う割には、いろんなものよく読んどるなぁーっ。
好きすぎるやろ!って話なんですよね。

ストーカーって相手のことが好きで執着してるわけですが、
アンチだって好きだからまとわりつくんですよね。
そして、気を引きたいから批判をするわけなんです。
批判ってラブコールと同じようなものなんですよね。

以前ちょっとネット上の批判についてのご質問を受けたんですけど、
よくあるネット上の批判も、そういうパターンが多いのかもしれませんね。
歪んだストーカータイプなのか、あとは、自分の中にある何かが傷つけられた!と思ってるパターンのどちらかだと思います。
ウザいし迷惑ですけどねー。
本人はしんどいんだろうなーって同情しつつ、相手にしないことですね。
そして、一定ラインを超えてきたなら速攻で法的手段を実行してやったら良いんですよね。
有名な人ももっとガンガン訴えたったら良いと思うんですよね。当然の権利なんですし、有名税なんてものはありませんのでね。

古くからある教えの中には、執着を戒めるものがたくさんあります。
執着とは、主義に対する思い入れなんですけどね。
こういった主義への思い入れって、結局、表か裏の片方への思い入れになるんですよね。
つまり執着が強いほど片方しか見えなくなっちゃうんですよね。
光を強く当てれば影も濃くなるわけで、その反発に苦しんだりもするわけです。

これは、自分ばっかりを愛すると周りが敵に見えてくるのと似ています。

この片方だけに隔たると当然全体からはかけ離れてしまいますので、不足感を感じるわけです。
なので、この隔たりを直してあげましょーねー。
っていうのが、よくある教えの1つだったりするわけです。

執着を手放しなさい。っていうのも、
隣人を愛しなさいというのも
同じ意味なんですね。

利己心ではなく利他心を育てなさい。
なんて教えも同じ意味です。

片方に隔たらなくてええんやでって言う話なんです。

右手に持ってる人形も左手に持ってる人形も、あなたの人形やないですか。
いつしか、人形同士の衝突に夢中になるがあまり、それが見えなくなってたりもするわけですが、それ、独り相撲やないですか。
ってね。
こう言う話もまた、同じ意味なんです。

そこで、試しに自分の右手も左手も両方を愛でててあげると衝突は意味を失うんです。
これはウザい相手を許すというよりは、ウザいと思っている自分を許してあげたら良いんです。
それが許せると、相手のことはどうでも良くなってくるものだったりしますからねー。
ウザいと思っている自分に罪悪感を持たなくても良いんです。

するとね。右手も左手も誰もコントロールしているものはいなかったことも明らかになります。
自身の中にあるというよりは、そこに自身はなく、ただあったんですね。

でね。ここで気づくことがあるんです。
それは
「そっかー。コントロールすらしてなかったんか。だからこれで良かったんだ!
そのままでいいと言うのは、コントロールの方向性について言われてたんじゃなかったのね。」
ということと、もう一つ。
「執着っていうのもまた、ある種の愛の表現やったんやなー」
っていうことなんです。

全ては愛なんですが、その愛を小さな器に押し込めるとそれが執着になるわけなんですよね。

この器となるのが、自分という観念だったりするわけです。

器から解き放たれると、完全な調律が甦るんです。

一部だけを聞いていたから不協和音を感じていて、その不協和音を直そうとしてたわけですが、ちゃんと全てを聞いたらそれは完全な調律だったんですよね。

その完全な調律。それこそが静謐なんです。

静寂、静謐。それは音のない世界ではなく、全てがあるということです。

空とは色のない世界ではなく、全ての色があるということなんです。

その入り口が、
「そっかー!これで良かったんだ!」という許しなんです。

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