非二元っていうのは、二元ではないということでございまして、
それは、主体と客体のなさということでもあります。
実際、主体と客体ってどっちも自身のイメージの中にしかないんですよねー。
あなたが知ってる他人はあなたの中から出たことはないんです。
そして、いっさい思考がない状態ではその人はどこにもいないんですよね。
自分と、自分以外。
外と内って線引きもイメージの中にしかないんですよね。
なので、「外の環境はあなたの投影です。」
なんて言われてるわけなんですが、
環境が悪いのは、自分が悪いんだ!ってなる必要も全然ないんですけどねー。
そういう事でもないですからねぇ。
自分の中なら、なんでこんな都合の悪いことが降ってくるのか?
と思うかもしれませんが、それをコントロールする誰かなんてどこにもいないんですよね。
なので、
都合の良し悪しも、思考の中で決められたイメージなんです。
うまくコントロールして、環境を良くしようとすればするほど、分離の感覚にのめりこんじゃったりしてしまいがちです。
内と外。
自分と他人。
自分と環境。
こういう関係って、ホント
両手に持ったキン消し遊びのようなものなんですよ。
キン消しがわかりにくかったら、腕人形のパペットのようなものです。
左手と右手の人形。
この両手の人形の対立関係が大きい場合は、分離感も強くなっているわけです。
実際に分離があるわけじゃなく、
分離の観念が強いから、分離の強いイメージを見ているという事なんですよね。
そして分離の大前提をもったまま、うまくコントロールしようと頑張ってみても、いつまでたっても分離感はここに残ってることになりますので、分離によって生じる「苦」はずっと残ってることになるんです。
この「苦」が足りなさを生み出したりするんですよね。
実際には足りなさはないんですが、足りないようなイメージが残っちゃうという事です。
こいつはもう分離しているという大前提を何とかしなきゃどうしようもないんですが、それを何とかする方法っていうのも実はなかったりするわけなんです。
だって、コントロールする誰かがいてないわけですからねー。
結局なんとかしなくても良い!なんてところに戻ってきたりするわけなんです。
でも一個だけ出来ることがあるとするならば、
右手の人形も、左手の人形も、
その両方を共に愛でてあげてみると良いかもしれません。
右手が自分で左手が自分以外なんだとしたらね。
その両方を愛でてあげるんです。
これが、自分を愛でてあげるという事なんですよね。
右手の自分だけを愛でてあげるんじゃなくてねー。
左手の自分以外も愛でてあげるってわけですね。
そうすると、どちらも愛らしいものになるわけですので、
そこに分離の力は無くなってくるわけなんです。
分離というのは対立があるから成り立つわけですが、両者がおなじく愛らしいモノなんだとすれば、対立関係が無意味になるんですよねん。
ただ、これは何でもかんでも黙って我慢して受け入れなさい!ということとは全然違いますよ。
我慢してお金をお布施しなさい!
許し明け渡しなさい!
なんて論法にすり替わると変な宗教になっちゃうわけなんですが、
そうじゃなくて、
我慢ならーん!って思いがあることもすでに許されとるということを知るんです。
大嫌いな奴はホント嫌いやわ~♪っていうままで愛でてあげるんです。
好きにならなければならない。嫌いを好きに変えなきゃならないってことじゃ無いんですね。
好きでも嫌いでもどっちでも良いわけです。
そんな思いを愛でてあげたら良いんです。
ややこしいですが、一言でいうと、
「これでいいのだ!」
ということなんです。
バカボンパパ、素敵すぎますね。
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