Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元セッションやリトリートの心構え

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リトリートとかセッションとかね。
そういうのは、行きたきゃガンガンいけばいいですし、
先生も誠心誠意手を差し伸べてくれると思うんです。

目的は色々あると思います。
時に自分と向き合ってみるのも良いですし、
リラックスしに行くのも良いと思うんです。

ただ、いくからには必要な心構えがあるじゃないかなーって思うんですよね。

その心構えとは、
「私ってば!サイコー!」
という心構えなんです。

この心構えを持つことがとっても大事なんだと思うんですよね。

今日はこの辺のことについて書いてみたいとおもいます。

 

ついついねー。
そういった会に参加しちゃう場合はね。
なんか無意識に先生はスゴイ人で、自分は足りない人。
みたいなね。
そんな根も葉もない大前提を作っちゃいがちなんですよね。

それが、あやとり教室だったら別に良いと思うんですよ。
あやとりが上手な先生に教わりにいくんですからね。

でも、あやとりができる人間は人格が高く高尚である。
なんて思わないですもんねぇ。
ただ、あやとりが上手なだけでして関係ないですもんね。

でも、非二元の話になると、なぜかこれを教えてる先生は高尚である。
と言ったような大きな誤解があったりすると思うんです。

ブッダは神のような人だ。
聖者は聖人だ。
とかね。

そうすると、そんな人と自分をついつい比べちゃって、
自分が何か決定的に足りなくてそれを埋めてもらおうと期待しちゃったりするんですよねー。
この期待が依存を生んだりしますし、結果的に搾取されたような状態になったりもするわけなんです。

搾取とかいうと人聞きが悪いわぁ。
って思うかもしれませんが、
別に先生が搾取してやろうとしてるわけじゃなく、
自分が望んで搾取されたいって明け渡しちゃうんですよね。

こういうパターンは僕も見たことがあります。
そうなると、途端に宗教っぽくなっちゃって、教祖と信者。
みたいな関係性が出来ちゃいますのでねー。

すると余計に迷いにハマり込んじゃったりしますのでね。

なので、「自分サイコー!」だという心構えをしっかり持っておいて欲しいんですよね。

その上で、聞いた言葉がピンと来なけりゃスルーすれば良いし、
何か自分の中で握りしめてたチカラが緩むような感覚がしたなら、
自分の中のそのリラックスを味わえば良いんです。

あくまでも、自分を明け渡す相手は自分に向けてなんです。
自分の奥にある真我を信じ、その自分に明け渡すんです。
先生や覚者やブッダやどこぞの神さまに明け渡すもんじゃありません。

なので、道の案内看板として利用すれば良いんです。
看板の中には道はありませんのでね。
言葉の中に真実があるわけじゃないんですよね。

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